川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

蕭蕭

『完全無修正版 濹東綺譚』(1992・新藤兼人監督)をDVDで。すでに30年も前の映画か。当時高校生だった僕が館に足を運んだ覚えはないが、何年かしてツタヤで完全無修正版じゃないやつを借りて観たのだと思う。それでも股間を熱く滾らせはしたはずだ。実家を出ている状況で観たのだろう。

断腸亭日乗』なる荷風が長年にわたってつけていた日記のことは当時でもなんとなく知っていた気がする。その頃静かな〈荷風ブーム〉のようなものがあって、神保町の書店でそんなコーナーを目にした記憶がある。しかし、僕は今に至るまで荷風の文学をまともに読んだことはない。若い頃はなにか蕭蕭たるイメージで、その枯れたさまに生気を吸い取られそうな気がしたのかもしれない。

映画。すでに監督は100歳でこの世を去り、永井荷風を演じた津川雅彦も鬼籍に入っている。墨田ユキはまだ還暦前のようだが、とうに芸能界から退いているらしい。あらためて観てみたら映画として悪くなかった。墨田が画面にあらわれるのは意外に遅いのだが、要は初老の男が若い娼婦に会うために麻布と玉ノ井を行ったり来たりする。その手の男女の交流が蕭蕭と描かれ、後半少し動く。それが今の僕にはやけに沁みる。エロスも蕭蕭。ゆえに昂奮する。自分が齢をとったからだと言わざるを得ない。乙羽信子杉村春子のおばあさんの演技も光る。

偏奇館として出てくるこの木造建物は雑司ヶ谷旧宣教師館とのこと。劇中、空襲で焼け落ちるそれは前面部だけ精巧につくったものなのだろう。

荷風が生涯独身で、ずっと玄人だけを相手にして、最後は使い切れない多くの資産(金銭)を残して市川の寓居でのたれ死んだのは、Wikipediaができるだいぶ前から知っていた。筋金入りの個人主義者とかなんとか。そういう味を津川はよく出せているし、墨田ユキも明るい中に性を感じさせて名演。その肢体は今も僕を滾らせる。それが昔と同じ質なのかどうかはさておき。

荷風が日参していたという浅草の洋食屋アリゾナ荷風の読者でもない僕がなんとなくこの作物が気になってきたとすれば、今は東向島と呼ばれる玉ノ井、この浅草が地元であるということから。

f:id:guangtailang:20221231134901j:image晦日に、初めて荷風の本を買う。日記全体は無論厖大なので文芸評論家磯田光一による摘録。だから、まともに読んだことにならない。一個の挿話を思い出したので確認作業をしない上で書くが、磯田は若い頃に胸の病気をやっており、そういう縁で作家吉村昭はシンパシーを感じていた。念のため書くと吉村も若い頃胸の病気をやっており、当時あまりに実験的な手術で肋骨を何本も切断している。なにか文芸に関する会合があって、日が暮れてから吉村と磯田が帰路についた。場所が都心だったのだろう。磯田の住まいが松戸の中心部からも離れた郊外(松戸市三村新田)と知り、吉村はあの暗い鉄橋をわたって、そのまた先に磯田は独り帰っていくのだと思ったという。吉村の自宅は井の頭公園のへり。時代も違うから松戸の郊外は蕭蕭としたイメージだったのだろう。いや、吉村のことだから実際足を運んだことがあり、事実蕭蕭としていたのかもしれない。

最後に。僕は仕事上で高齢の男の遺体を何人も見ている。劇中、荷風が乱雑な部屋の畳上で血を吐き、顔土気色で息絶えているさまは実にリアリティがあるのだ。数日経過して発見されるとほんとうにあの様(季節によって違いはあるが、荷風が逝ったのは4月)。テレビドラマや映画の遺体で、きれいな血一筋やあまりの顔色のよさに辟易することがあるが、この津川演じる荷風の遺体には感心した。

それでは皆様、よいお年を!

※追記20230111

荷風は若い頃に二度結婚歴があるようだ。といって自分の意に染まないかたちのものだったらしいが。あと、アリゾナは閉店しているらしい。