川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

今は昔

夕刻、Hさんからラインにメッセージがあり、自転車のボタン式ロックの4桁の番号を忘れたから教えてくれという。曰く、今買い物をしてスーパーの前にいる。荷物が多いので歩いては帰れない。ひとの番号を僕はそもそも覚えていないから教えようがない。以前にも同様のことがあり、彼女がついに思い出せず、近所の自転車屋でロックを取り外して新しいものをつけてもらった。念のためと思い、家のとある場所に4桁の番号を書いておいた。それで記憶していると思ったんだろう。僕は仕事を早めに切り上げて帰宅し、番号を伝えた。職住近接でよかった。

羊肉たっぷりの火鍋にありつけたのでHさんにあまり文句を言えなくなったが、「4桁の番号、どこに書いてあると思う?」と訊いた。まったく覚えていなかった。「ここだ」とカレンダーの鋲をとめる厚紙の部分を指した。「ああ」と反応は薄い。彼女がスーツケースのロックの4桁の番号を忘れてすったもんだしたこともあった。なぜこの人はこんなにも忘れてしまい思い出せないのか。熟女の衰えと呼んでいいのか。しかしひとのことばかり言ってはいられない。僕も最近、競泳の瀬戸大也とライバル関係にあった男の名が顔は浮かんでいるのにまったく思い出せず自分に苛々した。簡単に調べたくはなく、記憶を呼び起こそうと躍起になった。しばらくして思い出そうとすること自体を忘れたが、数日後、部屋で酒を飲みながら本棚を眺めている時、不意に萩野公介の4文字が出てきた。

Hさんが日常乗っている自転車ロックの4桁の番号を思い出せなかったのは、ここ半年くらい施錠していなかったからだそうだ。生活に直結している事柄が思い出せないのは不便だが、引退した競泳選手の名を失念したところでどうってことはない、などと言ってもいられない。そのうち僕も日々の生活に直結している大事な事柄を思い出せなくなるかもしれない。昔、年配者が〈顔は浮かんでいるけど、名前が出てこない〉としょっちゅう言うのを聞いて少年は不思議に感じたものだが、いつの間やら己がそうなっている。あの時代、彼ら彼女らは簡単に検索することができなかった。あとテレビなどで年少者の集団を眺めて〈どの顔も同じに見える〉というのが年配者の言い草としてあった。それは僕はまだ感じない。無味乾燥な数字の羅列が思い出せないことと、固有名詞が思い出せないことには人間の記憶(脳)の機制の上でどのような違いがあるのか。

f:id:guangtailang:20221215194442j:imageリバーサイドカフェ。ムルソーの窓からはスカイツリーの前にタワマンがでんと立ちはだかり景観を汚していたが、少しずれた場所からは塔のほぼ全貌を写せる。最近東京タワーの見える12階に引っ越したばかりのMがこのタワマンの詳細を知りたがったが、あいにく僕はこれに限らず住居としてのタワマンに関心が薄い。唯一興味があるとすれば、鬼高いというタワマンの大規模修繕費の挿話くらい。

少年の僕らは勿論この黄金を指してうんこビルと呼んでいたわけだが、フィリップ・スタルクがこれをデザインし、建築されたのは昭和の終わり頃の話だ。そう考えるとこのランドマークも30数年の歴史がある。

f:id:guangtailang:20221215194446j:imageここに来るたび必ずたのむバナナのクリームブリュレ。半分こして食べた。この先どこかでクリームブリュレを食べる際、これを思い出してしまうんじゃないかとMと言い合う。こうして人は死に向かって歩んでいると感じながら。

ちなみにこの呼称、友人Jなら〈クレムブリュレ〉と訂正したいに違いない。

f:id:guangtailang:20221215194436j:image先月だったか、ちょうどひとつきかけて読んだ小説。

『その場所に女ありて』(1962・鈴木英夫監督)の若き山﨑努。〈女だてらに〉という言葉が思い浮かぶ映画。銀座の広告代理店で働く女たちが主役だが、変に骨ばった男勝りの言葉遣いをする。タバコをすぱすぱ吸う。それらが現在からみればやや滑稽だが、これが時代なら当時のキャリアウーマンは大変だったのだな。〈男に伍して〉という意識が非常に強いから、男どもに侮られている同性は糾弾されても仕方がない。そんな中で山﨑努の役回りはなかなかおもしろかった。最後は司葉子に横っ面を張られるだろう。ライバル広告会社の宝田明は昭和のいかにも二枚目然としていた。

今からちょうど60年前の映画だが、2082年に映画があれば、その時代のひとびとからみて、現在のわれわれの価値感やライフスタイルはやや滑稽に映るかもしれない。