川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

眺望のいい場所

『恋人たちの時刻』(1987/澤井信一郎監督)を部屋にあったDVDで。終始晩秋のような物悲しさが底流している1本。それを久石譲の音楽がいやがうえにも盛り上げる。北海道が舞台だが、観光地然とした場所はほとんど映らない。ただ、眺望のいい場所はよく出てくる。主要人物が皆淋しさを抱えていることを初見の時以上に感じたのと、現在の自分は彫刻家の男の年齢にもっとも近くなってしまったのだと思った。

【以下、ややネタバレあり。役名ではなく俳優の名前で書きます】

眺望のいい場所①

小樽商大のアメフト部員の役ではたちくらいの江口洋介が出演している。野村宏伸はたしかに台詞回しが拙いのだが、それが却って恋愛に不器用な予備校生の役に合っていると思う。この野村は相当変で、妙に行動力があって、言葉と行動のアンバランスさが魅力になっている。

眺望のいい場所②

河合美智子は翳のある女性をよく演じていると思う。いきなりのヌードはこの時代よくあった。野村が奇妙な肉食系として迫ると、デートの約束をとりつける。しかし彫刻家のモデルをしていて遅刻した彼女は、待ち合せ場所でしきりに腕立て伏せをしている野村を遠目に眺めて、会わずに引き返す。次に会った時に野村が「なんで腕立て伏せがダメなんだよ」と言うが、ほんとだぜ。なんであれ約束は守る、これはほんとうに第一義的なのだと年々感じていますので。いや、少しも乗り気じゃない河合が疎ましく感じたのはわかりますよ。若い時は特にそう。でもね、壮年の僕は。女性の遅刻に遭ったら、その場で腕立て伏せをして待ちたいと思いました。予備校の寮部屋がこんなに夜景がきれいでいいんでしょうか。野村は河合を部屋に招いたことにより退寮になる。

眺めのいい場所③

彫刻家の高橋悦史が実年齢で演じていたとしたら52くらいなんだ。奥さんの大谷直子乳がんを患っていて、亡くなってしまう。妻として女としてモデルとして高橋に尽くせないことを残念に思う気持ちを吐露する。夫の愛人(真野あずさ)やモデル(河合美智子)の存在も受け入れているようだ。といって、愛人も結婚して高橋のもとを去り、モデルは野村と同棲することを一旦は選ぶ。「あの人はほんとに独りになってしまうのね」と、真野は河合に呟く。

終盤、置き手紙を残し、部屋に姿の見えない河合を探しに出た野村と酔っぱらって街路をふらつく高橋がぶつかる。野村が高橋を抱き起こす。札幌は大きな街だが、ふたりは遭遇してしまうのである。「若者よ、そんなに急いでどこへ行く」とか高橋は言う。淋しさと淋しさの塊がぶつかったのだ。野村は空港で河合に追いつくが、結局去られる。自らの通ってきた道筋を振り返った時、河合はやはり野村と一緒にはなれない、自分はふさわしくない、あなたとわたしは〈違う人間〉なのよと思ったのか。ここにもまた淋しさの塊が在る。ほとんど感情をあらわさなかった河合が最後目に涙を浮かべている。これを見た時、今回もぐっときてしまった。

f:id:guangtailang:20220430204421j:imageおなかの調子が悪かったので途中下車しました、5分ほど遅れます。そのあいだ腕立て伏せをしてもよかったが、しなかった。5分は遅刻には入らない。銀座線浅草駅の改札に下りていくと壁に熊本の路線図が貼ってあった。それを眺めて待つ。

f:id:guangtailang:20220430204432j:imageGWの観光地、天気もいいし。ダイナーとベトナムカフェが満席で、「こっちにムルソーってカフェがあるんだ」とMを誘導する。この店は僕が少年の頃から存在しているはずだ。大昔に一度か二度家族に連れられて入ったことがある。入口の階段でわずかに待ったが、わりかしすんなり入店できた。

窓は開け放たれており、川風が少し涼し過ぎるくらいだ。Mは着ていたジャケットを脱いで脚に纏わりつかせた。彼女は自分の話をまくしたてるということはしない。昔、横浜(関内だったかな)でアルバイトをしていた時、やはりこういう窓を全開放するレストランだったとぽつりぽつり喋り始めた。「眺めはいい場所だったの?」「ううん。ふつうに道路で、向かいに薬局があった。ただ、クルマはあんまり通らない道で」「それはいいね。オープンで排気ガスとかちょっとな」。運ばれてきたバナナのクリームブリュレをスプーンでちょんとつつき、「この焦げたとこが好きなんだ」とあっという間に平らげた。

ガラスドア越しに階段に並んでいる人たちが見えるので腰を上げた。Mはすーっと窓際に寄り、少しのあいだ外を眺めていた。