〈セカチュー〉と呼ばれたブームを勿論知らないわけじゃない。2001年初版発行だが、当初はそれほど話題にならなかったというから、おれが知ったのはご多分に洩れず、100万部を突破した2003年、映画化・テレビドラマ化された2004年、そのあたりだろう。20代後半の頃だ。『世界の中心で、愛をさけぶ』という題名にまず反発を覚えた。臆面もなくよく言うぜと。難病を題材にした高校生の恋愛小説だと漏れ聞いて、しゃらくさいと一層抵抗を感じた。日本のあるロックバンドの歌曲をもじって、「愛を語るより半ケツで踊ろう」と言った知人がいるが、男子高校生ならこれくらいチャイルディッシュだったり、あまのじゃくだったりするはずだ。とにかくブームそれ自体への反発、題名と題材に自分の趣味嗜好との距離を感じて、小説を手に取ることはなかった。とはいえ、長澤まさみの映画版は観なかったが、綾瀬はるかのテレビドラマ版はつい観てしまったことがある。場所は校庭だったか、夏の制服を着た綾瀬はるかが同級生らを前に、雨に濡れながら弔辞を読み上げている場面で、その凛として透明な美しさに目が離せなくなった。この女優に驚かされた最初である。彼女は10代で演じていただろう。とはいえ、残り全話を観たわけでもなかった。
そんな片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』を、20年の時を経て読んでみた。存外よかった。こうゆう文体で書かれているのなら、20代のおれも決して拒否反応など示さなかったと思った。白血病で亡くなった恋人との過去を回想する章も、パキパキとリジッドな文章は読んでいて小気味好く、センチメンタルを垂れ流してぐずぐずする感じはない。島での蛍の描写などはロマンチックだが、抑制が効いている。人気のない廃ホテルで深夜に鳴る電話は怖いね。ああ、食わず嫌いしていた当時のおれが愚かだったと反省した。今年45になるおれからみて、この小説の美点はいくつかあるが、硬質な文体のほかにひとつ挙げれば、余分な登場人物が出てこないということがある。主人公の朔とアキ、朔の祖父、大木、まあ重要なのはこのよにん。他の人物たちは固有名も与えられず、さっと一筆で描写される程度。あくまで朔とアキで築かれた純粋世界を物語るのだから、夾雑物は要らないということ。
朔はなかなかひねくれたところがあり、缶詰ばかり食べている祖父の住むマンションを訪れ、一緒に赤ワインを飲んだりする。そして、この祖父のたのみで墓あばきをやる。やむにやまれぬ理由で住居不法侵入もやる。その際、アキの下着を顔に押しつけたりもする。これらは男子高校生として真っ当な行いである。他方、アキは一見分別臭いのだが、そんな彼女が朔を好きになるのは彼の祖父ゆずりの自由な知性とちょっと奔放なところかも知れなく、彼女の内部にそうしたものへの共感、それ以上に羨望があるようにみえる。朔は、愛を語るより半ケツで踊るには蛮勇=ノンセンスが不足しているかも知れないが、その分、フィロソフィカルである。たぶん、それほどのイケメンではないにしろ、シュッとした感じの、同級生に比して少し影のある男だと思う。
最後にひとつ、エピソードを語ろう。私の年少の友人にJとSがいる。彼らふたりは高校の同級生だが、SがJにこの人にはかなわないと思った瞬間があるという。その日Sは、放課後とくに用事もないので帰途に就こうと校門にさしかかった。彼の他にも帰宅する生徒らで附近はごった返している。するとサッカー部に所属しているJがどこからともなくあらわれた。そして、「よう!」と挨拶したつぎの瞬間、ユニフォームの短パンをずり下げた。パンツも同時に下げられ、ちんぽこが露出した。ゴムの反動を利用して、さっとしまった。わずか数秒の出来事ではあったが、場所は衆人環視の校門前。彼らはミッション系の男子校に通っており、女子高校生はいなかった(いたら大変である)。たとえばこれが男子高校生の蛮勇=ノンセンスである。