川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

照らされつづけて

f:id:guangtailang:20211207113432j:image冬は天候が安定するから5日の日曜日が晴天なのは結構前からわかっていた。それにしてもいい天気だった。そのぶん、筑波山頂は人が多かった。老若男女、本格装備、軽装備、ふつうの恰好、ヒール靴、いろいろいる。Mにとっては久しぶりの山だという。

f:id:guangtailang:20211207113517j:image午前8時前。Mの指定で待ち合せは渋谷駅周辺になったが、クルマはおろか電車でもあまり来ない街だからグルグルして、結局駅からかなり離れたコインパーキングに入れる。109の通りを隔てて反対側のカフェで時間まで彼女を待つ。首を回している時にMはあらわれた。耳あてのついた毛糸の帽子にオフホワイトのタートルネック、黒のパンツ姿で、あとで聞いたら中にヒートテックを着ていると言った。あれっ、また増えたと思い、彼女の手を持って小指の付け根の下の部位を見ると、新たな文字が刻まれていた。いろいろあった激動のいちねんなのはおれもよく知っているが、短期間に増え過ぎだな、と思う。友人のJに言わせれば、Mは〈人類のカテゴリーとして、タトゥーが似合う〉らしく、そのこと自体はおれも首肯するけれど。

常磐道の守谷SAで休憩。彼女は最近すごくお腹が空くと言って、シュウマイ串とあと何か買って食べていた。おれは家で7時過ぎに朝飯を食べていたから、パクつく様子を眺めているだけ。

順調なドライブで筑波山が眼前に見えてきた。中腹から麓にかけてまだ色鮮やかに紅葉しており、そのモコモコした感じが可愛らしく、寝そべった動物のようだと言い合った。他方で、彼女とのドライブは念願だったはずだが、内心、このような気分でドライブが実現されたことに数奇なものを感じざるを得なかった。つまり、凝ったネガティブな感情の塊が奥の方でドンとして動かない。

f:id:guangtailang:20211207113448p:imageケーブルカーの宮脇駅は筑波山神社拝殿の左手の石段を上っていくとある。10分おきくらいで来るからそんなに待つこともないが、そのあいだ紅葉を眺めながら雑談していた。その時、少し気になっていたのは、Mが石段を登りながら息切れしていたことだった。最近の躰の不調を空気のよいところで浄化してもらおうとか簡単に考えていたが、やはりあまりムリはさせられないのかもしれないと思い始めた。

8分ほどで山頂駅に着く。ケーブルカーの車内では互いに無言で、アナウンスの声をただ聞いていた。ここも日光がよく照っていて、寒さは意外と感じない。まず男体山、つづいて女体山と両方の山頂に登った。上り下りで人がつっかえている。Mは息切れしてはいたが、足取りが重くなるとか気分が悪そうとか、そういうことは一切無いように見えた。長い脚でサッサっと岩場を上っていく。リウマチという趾も痛くないのだろう。

帰りのケーブルカーは長蛇の列ができていて、1台目に乗れず、次のやつに乗った。直前にMの買った甘酒はとてつもない甜さだったが、彼女にはちょうどよいらしく、この甜みへの嗜好は、Hさんも思い出すことになる。ケーブルカーの車内では二言三言喋っただけで、一直線に下っている鉄路をただ眺めていた。

ごく近辺がすべて満車で、随分離れた駐車場に入れたが、そこには砂利の山を相手にシャベルで作業する人がいて、数時間前に駐めた時と同じ体勢でシャベルを動かしていた。クルマの脇まで来ると「ちょっとこっちに乗ってくれる?」と言って後部座席にふたりで乗り込み、「靴と靴下を脱いで」と矢継ぎ早に言い、素直に裸足になった彼女の足を太腿の上に乗せて愛撫した。そのままの体勢で、最初言いあぐねて、でも向こうも促すから意を決して話し始めた。凝ったネガティブな感情の塊を引っ張り上げて、ゴロリと彼女の前に差し出した。ふたりしてそれを矯めつ眇めつして、転がして、叩いて、ついには融けて、随分小さくなったのだ。この時も思ったものだ。Mはちゃんと話ができる相手だと。この興味深くておもしろい人物と会わないという選択をすることはあり得ないと。ただ、話の真剣さに一見そぐわない体勢だけが、むしろふたりの現在に至る関係を鮮やかに象徴していた。シャベルで作業していた人が遠目にこちらを窺っているのがわかったから、その後すぐにクルマを発進させた。

日光にいちにち照らされつづけたが、もう夕闇が迫っていた車内で、Mは〈顔にすぐ出るよね〉と言った。言いあぐねていることがあるとそれが表情に出る。ずっとそうだと思って見ていた。「そうか、顔に出てるのか」「うちらの付き合いももうね、そうゆうのわかるから」。

東京に戻ってきた頃、彼女は助手席で静かな寝息を立てていた。

翌日の朝、Mからラインが届き、リウマチではなかった、指定難病53 シェーグレン症候群だったとあった。

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