川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

まあ12000歩

今日は昼間だけで12000歩ウオークした。まあ人によってたいしたことのない歩数であり、たいしたことのある歩数だと思う。先月あたりから夜の散歩に出なくなったのは、ファさんが寒いのを嫌ってのことだが、抄太郎いちにんで出かけてもいいわけで、それもしない。ある晩、近所の福太郎に日用品を買いに出かけ、それらをリュックに詰めて隅田川沿いをウオークするつもりが、気がつけば家路についていたことがある。ただでさえ出張った腹が食後でさらに膨らんでいるのに情けないと、ぽんぽん腹を叩いた。年をとるほど、その人の生活が貌や躰に出る。などと誰が言ったか知らぬが、まあほんとうです。

f:id:guangtailang:20201110152811j:image西片の水道局に調査で行き、そこから上野駅まで歩く。西片といえば文京区の中でも高級住宅地のイメージが強いが、交通の便は良くない。最寄駅は南北線東大前駅なのかもしれない。抄太郎は南北線に2回くらいしか乗ったことがない。バルマカーンコートを羽織っていたこともあり、不忍池に至る頃には汗ばんでいた。上野駅広小路口にマスク着用反対派の人らが集まりなにやら叫んでいたが、気炎が足りないようだ。構内に入るとマスクをしているが、ホットパンツに素脚を露出した若い女性とすれ違った。上半身は暖かそうなのを着ていたので、どないやねんとくすっとしました。

f:id:guangtailang:20201110152840j:image同日、台東区役所にも用があり、そこから銀座線で浅草まで来た。松屋への地上出口へ向かうスロープ。左側にある立ち食いそば屋の方へ曲がると、そこから昭和にタイムスリップする。コロナが流行って以降、初めてこちらに来たが、いくつかの店舗は閉じているようで、すでに明け渡して不動産屋の募集貼紙が出ている店舗もある。その影響か、以前は鼻に纏わりついてきた、あのいろんなものが混じって甘く饐えたような臭気は感じられなかった。インバウンドの客が著しく減少し、閑散としている浅草を〈昔の浅草に戻った〉と表現する人もいる。抄太郎の父親もそうゆうひとりだ。彼の物心ついてから多感な青年期まで、1950年代から1970年代までの浅草や上野に纏わる記憶はまあ傾聴に値する。ちなみに父親が語るうちに興奮して身振り手振りが大きくなり、助手席の母親に「ちゃんと前見て運転して下さい」と窘められたのが、三河島列車事故(1962 [昭和37])である。この時分、父親は中学生で、現場まで足を運んでいるから、強烈な記憶として脳裡にこびりついているのだろう。三河島近辺を通ると必ずこの話をしていたな。実際、事故概要を読んでみるととんでもない惨事なんです。