川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

福井

f:id:guangtailang:20201202141930j:image先日、福井県出身の女性と雑談する機会があった。彼女の郷里は敦賀で、東京に出てきてだいぶ経つらしいが、イントネーションになんとなく西のものが混じる。敦賀気比って野球で有名な高校がありますよねと抄太郎が言うと、まさにその学校の卒業生であった。敦賀の土地を踏んだことのない抄太郎が〈敦賀〉と呟いて脳裡に明滅するのは、ひとつは天狗党の乱。これは吉村昭先生の『天狗争乱』だが、ニシン蔵に閉じ込められた天狗党員の過酷な状況が描かれていた。加賀藩の人間がそれを見てむごいことをすると呟くような描写もたしかあったと思う。いまひとつは映画『約束』(1972・斎藤耕一監督)。日本海側の寒々しい景色をバックに、ショーケン岸恵子の哀しいランデヴーが映されていたが、主要な舞台が敦賀だった。そして敦賀港といえば、杉原千畝の計らいで欧州から逃れてきたユダヤ人がウラジオストク経由で到着した港であったろう。勿論、半島の突端に鎮座する原子力発電所。相手も別に厭そうではないので、抄太郎は前のめりで福井の話をつづけた。鯖江の眼鏡にはずっとお世話になっているんですよ、もう眼鏡と言えば鯖江鯖江と言えば眼鏡ですよね。しかし、彼女が眼鏡をかけていないせいものあり、また敦賀の人ということもあり、反応は薄かった。若廣っていう店はご存知ですか、焼き鯖が有名だと思うんですけど、僕、好物でよく食べるんですよ、上野とか日暮里に店舗があって、他にも焼き鯖の店はあると思うんですけど、僕は若廣のやつが好きです。あとで調べてみると若廣は小浜にあり、彼女は知ってはいるようだったが、ああそうなんですねえと反応は薄かった。こちらのいきおいについてきていないことがさすがに気になり始め、福井の話はこれで切り上げようと、福井は感染者が非常に少ないみたいだから、正月向こうに帰るっていってもなかなかあれですよねと言うと、親も別に帰って来いって言わないですからね。で、福井の話は終わった。

実は幼い頃の福井にまつわる思い出がひとつある。幼いといっても抄太郎が中学生にはなっていた。毎年、正月にはクルマで家族4人、祖母のいる神戸に行っていたのだが、その年、父親の思いつきで北陸地方を廻って帰ることになった。天橋立やら寄り道をしているうちに時間が飛び過ぎ、高浜の町に着く頃には夕闇が迫っていた。今日はここで一泊しようとたぶん父親が言い、町中をのろのろ走りながら宿を探し始めた。最初目に留まった宿はだいぶ年季の入った民宿で、両親が降車して訊きに行き、しばらくして戻ってくると、部屋は空いてるけど16,000円は高いよなとふたりで話していた。じゃあ、他も探してみましょうということで、再びクルマを発進させた。次に目に留まった宿も民宿だったが、さっきの宿よりはいくらか立派に見えた。両親が訊きに行く。戻ってきた父親が、空いてる、おんなじ16,000円だけどこっちでいいよなと言って決まった。すでに日がとっぷり暮れていたし。変哲もない和室に通され、ほどなくして夕飯となった。隣りの和室に長テーブルが用意されており、われわれは度肝を抜かれた。カニの脚が大皿に山盛りになっている。そうゆう皿が何枚かあり、他にも原型を留めたお面のような甲羅のカニもあり、あたかもテーブルがカニの紅で埋め尽くされているような感じだ。驚きの声が自然と出る。それぞれ配置につくと鍋が始まった。みんな一心不乱にむしゃむしゃ食いまくった。食っても食ってもカニはあった。4人とも満腹になったが、カニはまだ少し残っていた。弟が最後まで殻の中の実をこそいでいた。カニだけを食べて食べ切れず、その幸福の中で腹を楽にするため後ろにのけぞったのは後にも先にもこの時だけだ。今でも家族のうちで語り草になっている。高浜で一泊して東京まで帰るのは、神戸から日帰りするのと大差ない気がする。これを書きながら気がついたのだが、当時の両親は父親が現在の抄太郎と似たような年齢で、母親は現在の弟より若いのだった。若干眩暈のしそうな事実である。

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