斎藤耕一の『凍河』(1976)、『季節風』(1977)をDVDで観直す。両方ともメランコリックで暗いトーンが全編を覆っている。内向的ともいえる。1970年代後半といえば、1972年のあさま山荘事件で「政治の季節」が終息し、80年代の消費社会ないしサブカルチャー社会を謳歌するには至っていない、これといった大きな潮流のない空白地帯のような時代だろう。そうゆう時代の光がふたつの映画に定着されている。
【以下、ネタバレあり。※役名で呼ばず、俳優の名で呼んでいます】
五木寛之原作『凍河』は、横浜にある精神病院が舞台である。主演は中村雅俊。共演の五十嵐淳子とは翌年、結婚している。この映画の中では珍しい、明るい屋外でふたりがデートしている場面。
元々スチール担当だったいうことで、斎藤耕一の画はどれもえらく決まっている。中村の兄役で友情出演の石原裕次郎。
小悪魔的な魅力の原田美枝子。高校生を実年齢で演じている。中村雅俊との掛け合いをみていると、中村が70年代を代表する「お兄ちゃん」であることが納得される。
「オートバイ、お好きなんですか?」と中村に問いかける佐分利信。躰の奥の方から発せられる太い声だ。自分もオートバイに乗っていたことがある。20代の頃、ハルピンで…。
ちょっとホラーじみた場面。中村が目を開くと、五十嵐がベッドの端でこちらをみつめいている。それで中村は気づく。彼女が一晩中起きていたことに。五十嵐には消しても消えない暗い過去があった。ここでは荒井由実が作詞・作曲した「朝陽の中で微笑んで」を唱うハイ・ファイ・セットの声が流れている。この曲がまた、映画の雰囲気に見事にマッチしており、斎藤耕一は音楽の使い方が本当にうまい。
勉強を教えてくれと中村の部屋を訪れた小悪魔はこの後、胸も露わに「抱いて」と迫る。中村が拒否すると、泣き喚く。
病院の経営が行き詰まり、副院長の岡田茉莉子に頭を下げる佐分利。岡田のスーツルックがかっこいい。
斎藤監督。
高邁な理想を掲げて病院を設立した佐分利にも、実は消しても消えぬ暗い過去があった。彼は20代の頃にいたハルピン(満洲)で、中国人や他の外国人を使って、残酷な人体実験を行っていた。アル中で病院に運ばれてきたかつての同僚の正体を知った中村に詰問され、佐分利は告白する。同僚は帰国後、そのことを忘れるため、酒に溺れるようになった。彼は自分なんかよりよっぽど人間的な男なんです。苦しそうに言葉を吐き出す佐分利。罪滅ぼしの気持ちもあり、このような病院をつくったということなのか。彼が過去に立っていたのは非人間的な凍てつく河上。
それで私などはこの『凍河』という題名、ハルピンの松花江じゃないのか、とイメージしてしまう。とはいえ、映画で映されるのは全然そんな感じの大河ではないし、ハルピンと関係のない五十嵐も凍てつくような暗い過去を抱えているので、我田引水なのだが。映画の最初と最後はオートバイのエンジン音である。
ちなみに原作は読んでいません。
『季節風』の冒頭、素晴らしい芝生の上で野口五郎がギターを爪弾いているが、これは八戸の種差海岸らしい。とすると、家出した野口がモデルの女の赤いクルマに乗せてもらい東京まで行くのは、えらい距離だな。そこはわりかしさらっと描かれている。これは最後、新しい一歩を踏み出そうとする野口と大竹しのぶが海岸を歩く場面。
東京の場末の夜。
マンションと名のつく、薄汚れた木賃アパートに住む田中邦衛。そこに転がり込む野口。郷里の少年野球チームで監督をやっていたので、エースピッチャーだった野口は今でも監督と呼ぶ。
モデルの女と田中。失業中の田中と野口は、モデルのつてで仕事を紹介してもらおうと彼女の居場所を捜し廻る。
こうゆう画もいいですねえ。
野口に、別れの歌をつくってと云うモデルの女。その後、野口は骨肉腫となった監督の入院代を稼ぐため、女のパトロン、中村敦夫が所有するホールでその歌を披露するだろう。別れの歌とは、女が中村に送るためのものだったのだ。
急激に病状が悪化した田中は最期に故郷の海がみたいと云い出す。それで野口と娘の大竹が種差海岸までなんとか連れて来るが、気がつくと、野口に背負われた田中は目を閉じたままだった。
当時の第一線で活躍していたアイドル、野口が主演したいわゆるアイドル映画のわりには暗いのだが、脇を固める俳優陣が達者で、監督のスタイルがあるので、十分に観られるものとなっている。