川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

冒頭

f:id:guangtailang:20210922204217j:image今日気がついた。近所の商店街━といって御多分に洩れずシャッター閉まりぱなしの店ばかりだが━にある書店が今月15日で閉店していた。老夫婦でやっていた。シャッターに手書きで〈閉店しました〉とあり、両サイドのタイル壁に印刷されたわりかし長文の紙面が貼られている。内容は同じだ。それを読むと、先代から66年つづけてきた。しかし体力の衰え、気力も尽き、ついに廃業を決めた、とある。1955年、昭和30年開業。わたしの両親が少年や幼女だった時代と考えると、その遠さに少し呆然とする。リアル書店の弱い火がまたひとつ消えた。

この書店にはわたしも世話になったし(なぜか洋物のエロ本をよく買っていた。勿論、文庫本で近代小説も買っていた)、以前どこかで言及したが、ここの娘が学習塾でわたしと同じクラスだった。小柄で、喋ったところをほとんど見たことがないほど寡黙で、大きめの目は聡明そうに前を見つめていた。これも遠い。

それで帰宅して2階の床に仰臥して、しばし本棚を眺めていた。それからウィスキーが入った。その姿勢で流し込もうとして噎せた。無聊を慰めるため、目についた小説の冒頭部分を書き出す遊びをしてみようか。文庫本に限って。別にそんなにおもしろくないけど。

1〈海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリヤが縮んでいった。彼は妻の寝ている寝台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた〉

2〈巴里のはずれにあるジュルダン街は普通、学生村といわれている〉

3〈鍵穴はどこにもなかった〉

4〈荷造りを終えたジャンヌは、窓に歩み寄った。まだ降っている〉

5〈昭和二十年八月九日午後二時、牡丹江市警察署に一通の告発書がとどいた〉 

6〈その夜、わたしが豊平川の川辺へ出かけましたのは、月をながめたかったからではありません〉 

7〈朝、目が覚めると泣いていた。いつものことだ。悲しいのかどうかさえ、もうわからない。涙と一緒に、感情はどこかへ流れていった。しばらく布団のなかでぼんやりしていると、母がやって来て、「そろそろ起きなさい」と言った〉 

8〈羽越本線日本海を離れて、庄内平野に入ろうとするとき、なおその眺望を遮ろうとするように、左手に荒倉山が見え、それに連亘する高館山が見えて来ます〉 

9〈法廷の窓を覆う赤い模様の厚ぼったいカーテンは、日の光を完全に遮っていなかった。隙間から洩れる黄色い外光のせいで、高い天井の電球は薄ぼんやりとかすんで見えた〉 

10〈光雄は町子から「わたし、女ではないのよ」と打ち明けられた時、少しも驚きはしなかった。なかば泣き声で、真剣になって、子供が泣く直前に示す表情で、彼の顔のすぐ下で訴えられても、光雄は心が冷えて行くことはなかった。むしろ温泉行が四回目である、〉 

 

1横光利一「春は馬車に乗って」

2遠藤周作「月光のドミナ」

3絲山秋子「末裔」

4モーパッサン女の一生」永田千奈訳

5なかにし礼「赤い月」

6原田節子「満月」 

7片山恭一世界の中心で愛をさけぶ」 

8森敦「われ逝くもののごとく」 

9マクドナルド「さむけ」小笠原豊樹訳 

10武田泰淳「「愛」のかたち」