昼、Hさんの国民健康保険証の更新手続きに付き添い、区役所へ。わりとすんなり済んだが、窓口の女は少しの愛想もない厭なやつだった。
区役所の建物の前面が公園になっており、地味なジャンパーの爺さんたちがベンチに座ってひなたぼっこしている。日差しはあるが、風は冷たい。今朝方は東京の気温もマイナスを記録したというではないか。しかし野球帽の下の爺さんの横顔をみると、皺の刻まれたそれはいかにも穏やかに憩っているふうだ。噴水の装置はありながら水の出ていない池のぐるりを眺めるなかで、変わった姿勢の石像を見つけた。題名「雨を待つ」。立派な足の彼をしばらくみていると、ヒューモラスにこちらの笑みがこぼれる。
台座のプレートをたよりに事務所に帰って調べてみると、区のサイトに作者の言葉が載っていた。なるほどそういう意図の下につくられたのか。東京藝大卒業制作作品。
「早く時が流れる生活の中で、時折立ち止まって自分と向き合う時間がほしい。周りばかり気になって自分が大事にしていたことを見失ってしまう。まだまだ未熟で迷うことばかりだけれど、今の自分にしかできないカタチを残したい。自分が大事にしたものがカタチになってくるまで我慢強くじっと待つこと。石を手で掘ることを通じて自分の中にある焦りや不安、それでも目の前にあることを精一杯やっていく。そんな気持ちを人のカタチを通して表現しました。
雨に育てられる自然の木々のように、ゆっくりとではあるけれど大きく育っていきたいという思いでこの作品を制作し、「雨を待つ」という題をつけました。」(荒川区公式ホームページより)
これを座右の銘にしている友人がいるが、まことに含蓄のある言葉だと思う。彼は仕事では廉価の革靴、余暇では雪駄を履く。今のような時期でも週末は素足に雪駄である。珍妙奇怪と言えば言えるが、貫徹している彼のポリシーなのだ。こういうものを私は評価したい。
1月13日夜、馄炖(ホゥントゥン・ワンタン)にネギを散らして老干妈(ラオガンマー・瓶の表記はローカンマ)を垂らすとうまくて、ぱくぱく食べてしまう。腹八分目を守れず、己の意志薄弱を反省する。