ある夜、タイ古式マッサージの時間まで30分ほどあったので付近にある行きつけの喫茶店に入った。活舌のいい店員に案内され奥の禁煙席に座る。隣の席にTシャツにジーンズ姿の40くらいの男性とその向かいに小肥りの女性がおり、テーブルになにやら書面を出しながら熱っぽく喋っているから、チーズケイクとホットコーヒーを待っているあいだ、その会話が耳に入ってきてしまう。
映画の話だった。そして男性が日本人で、女性は中国人だった。僕も知っている固有名詞がいくつも出てきた。『ドライブ・マイ・カー』(2021)で海外の賞を総なめにした〈濱口竜介〉。そこから次のこれらは必然的に導き出される固有名詞だが、〈黒沢清〉〈青山真治〉〈田村正毅〉。また〈レオス・カラックス〉〈溝口健二〉〈宮川一夫〉等々。男性は『汚れた血』(1986)が初めて受けた映画的衝撃だと言った。要するに映画業界に身を置く人間(撮影関係か)で、シネフィルのようだ。一方、女性の日本語運用能力はたいしたもので、シネフィルの語りに十分ついていけていたが、チーズケイクを崩しながら聞いているとどうやら彼女も映画業界にいる、あるいは映画の学校に通っているようだった。日本映画には走るシーンが多い、またトイレのシーンも妙に多いと彼女が言い、どうですかと男性に問いかけた。シネフィルは、走るのは「運動」だから映画的に見栄えがするからね、でもトイレのシーンって多いかなと首を捻っていた。うん、多いですよ。
おそらく今日この場所が初対面らしいふたりの会話を聞いているうちにタイ古式マッサージの時間が迫っていた。中国映画は何を観ますか?と訊かれ、これにまた男性は唸り、即答しなかった。僕はわりと古いのしか観てないなあと言い、陳凱歌『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993)と候孝賢の名を挙げていた。ここで予約の5分前の時刻になっていたので、僕は立ち上がり会計を済ませ雑踏に出た。振り返り、2階の窓ガラスの向こうで横顔を見せるふたりを確認し、それから歩き出した。
ある日、池袋でMと待ち合わせしていたが、まだ3時間くらいあったのでジュンク堂に向かうという当初の予定を変更し、神保町に行った。というのもザーザー降りの雨で、自転車を最寄り駅に駐輪する選択肢が消え、どこの駅にも歩いていくことになったから。橋を渡る時スカイツリーに目をやると、根元の方以外雲に隠れて見えなかった。鈍色の、三月の寒々しい景色。
中国書籍を専門に扱う店が2店舗あるが、その日片方は休みだったので、もう片方に行った。両店舗は非常に近接している。奥のレジに大学生のアルバイトとおぼしき女性がマスクをして座っている。静かな空間に彼女が叩くキーボードの音だけがしめやかに響く。が、僕の靴底のラバーが歩くたびイルカのように鳴き、それが騒がしかった。すでにHSK5級を受験している友人Jによればティンリー(リスニング)が難物というから対策用のテキストを小脇に抱え、そこからさまざまな書棚を40分以上眺め回し、またさっきの場所に戻り、大陸の出版社が出している中級テキストの1冊を引っ張り出した。当然に日本円の値段が表記されておらず、57元とあった。僕はラバーを鳴らしながらレジに向かう。すみません、これの日本円はどこにあるんですか?と訊くと、黒髪の女性は立ち上がってテキストを受け取り、日本円はこのスリップにすべて載っていますと白魚のような指で紙をつまんだ。鈴の鳴るような声だった。なるほどね、ありがとうございました。
すべて可憐に出来上がっている女性だったよ、とMに言った。池袋のレトロ喫茶で、僕らの座る席の傍らはエスカレーターになっており、向こうの壁にはステンドグラスが嵌っている。なんで大学生ってわかるの。そりゃマスクで顔の下半分隠れているし確証はないけど、中国書籍専門店のレジでバイトする大学生と思いたいんだ。もっと話すればよかったじゃない。おそらく中国語ないし中国文化に興味のある女性だろうし、少なくともこのおっさんとそこの共通項はあるわけだ。仲良くなって食事でも誘えば。そこからまた何か… だからー、おまえはそうやってすぐ煽るやん。冷静に客観的に考えてみるとだよ、このおっさんと可憐なJDよ。どんな絵面なの。どうやってお近づきになるの。パパ活なの。犯罪なの。Mはティーカップを片手に大きな瞳をこちらに向け、いたずらっぽい笑みを浮かべている。