川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

差不多(チャブドゥオ)でいいじゃない

f:id:guangtailang:20230402174750j:imageMに焚きつけられたわけでもないが、五反田駅東口の集を出て山手線に乗り、新宿地下道の雑踏で彼女と別れたあと、新宿線神保町駅に降り立った。モーニングでトーストとゆでたまごを食べたから腹はさほど空いてなかったが、自然と地下の喫茶店に足が向かう。その日も階段まで列をつくって待っていたが、10分ほどして紫煙の座席に案内されるや自家製コーヒーゼリーを注文した。Mとその婚約者が先日箱根の高級旅館に泊まりに行った。そこの大浴場で人影を3回見たと彼女は言った。風呂の側から擦りガラス越しに人が移動しているのが見える。ああ誰か入ってくるなと思ったら、誰も来ない。それが続いたという。結局その時間帯Mひとりだった。外に出ると男湯もなんとなく気持ち悪かったと婚約者も言ったらしい。それでふたりにとって他の要素、客室やらそこからの景色やら館内の雰囲気やら晩朝の飯やら従業員のホスピタリティ等は良かったが、予約の取れない旅館というほどの感銘は受けなかったらしい。ゼリーをぱくつきながら彼女のそんな話を思い出していた。ちなみに僕自身はそういうモノが〈見える〉人間では全然ない。Mは妙にリアリティがあるというか現実に即した夢をみるのだが、僕のみる夢は常に荒唐無稽だ。目覚めたあとに夢の断片を思い返して、おれはやっぱり幼稚な人間なんだろうとよく考える。

中国書籍専門店に入ると、豈図らんやレジの女性はMとのあいだで話題にした彼女ではなく、眼鏡をかけた別の女性だった。前回と同じ曜日でもこういうことは起こり得る!それでも気を取り直し、店内を見て回る。大陸のテキストを矯めつ眇めつしながら、何の気なしに伸ばした視線の先におもしろい地図があった。それは大陸の大判テキストを2冊横に並べたくらいのサイズで、凹凸が施されている。要は地形図だった。上海や江蘇省安徽省河南省のあたりは平らだったが、浙江省は盛り上がっていた。ハルピンから遼寧省にかけて平らだった。重慶も平らだった。日本はすべて盛り上がっている。台湾も同様。そこまで精緻に出来ているわけではない。差不多(チャブドゥオ)でいいじゃない。繁体字で表記されているから台湾製造のものなのだろう。裏返して値段を見ると、僕の想像の倍するのだった。それでも部屋をおもしろくするために、僕は地図を手にレジへ向かった。

女性は快活で感じが良かった。が、地図を手提げ袋に入れる段になって表情を曇らせ、ちょっとお待ちくださいと電話で2階へ連絡をとった。〈稍等一下〉と薄毛の壮年は声に出さず中文に変換した。すぐに2階から下りてきたのが件の女性だった。マスクは相変わらずだったが、髪を後ろでお団子にしている。背丈は167くらいあった。地図の入るビニル袋を手にしていたが、それと同じタイミングで眼鏡の女性も同様の袋を見つけた。

3円の袋代とともに地図を購入したあと、壮年の足は自然と2階へ向かった。それで気がついたのだが、この書店は中国書籍が大半を占めるが、他のアジア諸国のものも扱っている。女性は前回と同じように軽やかにキーボードを叩いている。1階と違い、ポータブルプレーヤーからアジアの音楽が聞こえてくる。僕はDVDの棚をしばらく眺めつづけた。比較的新しいものもジャケットが色褪せているものもあった。日本のものも大陸のものも台湾のものもあった。5分ほど経った頃。すいません、ここのDVDは全部日本のプレーヤーで再生できますか?女性はすくっと立ち上がり、なにやらレジ脇の表に目を凝らしたあと、こちらに来て壮年の横に立った。日本はリージョンコードが2なんですけど、ALLの表記があったら再生できます。うん、そうですよね。さっきALLじゃない中国のやつがあったと思うんだけど、それは再生できないか。そうなりますねという具合に女性はこくっと頷いている。1個1個確認する感じで。はい。涼やかな切れ長の目をしていた。その瞳が真剣にDVDの棚を追っていた。若かった。派手な面立ちではないが、髪も肌も輝いていた。中国映画に興味があるのかな。あるいは台湾映画か。年代的におれの娘で全然おかしくないわけなんだからと心の中で呟いていた。

その後もしばらく2階を見て回った(インドネシア語のテキストを開いたり)のち、地図の袋をカシャカシャ鳴らしながら、壮年は階下へと向かった。

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