川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

水の流れ

海南島から帰ってきたHさんは翌日からすぐ仕事で上野やら西川口やら飛び回っている。三亜では朝から晩まで忙しかったと聞いていたし、海口、深圳、成田と移動も目まぐるしかっただろうから、大丈夫か、いちにちくらい家で休んだらどうだと言葉をかけても、仕方ない(没办法)と。向こうのバスの座席で長時間揺られていたから出来たのだと、風呂のあと陰部の左側の腫れ物を見せてきた。誰もかれもが腫れ物をつくっている。書斎の抽斗からリンデロンをとってきて、毛を指でおさえ患部に塗ってあげた。翌朝、海南土産のココナッツの粉末をドリップコーヒーに溶かして飲んでいると彼女が下りてきて、寝ぼけ眼で効果があったとパジャマの上から下半身を指差した。

f:id:guangtailang:20230215090341j:image『作家のインデックス』(集英社大倉舜二)。1998年当時の作家の家を撮影しているのだが、いつからかこれが1階トイレの抽斗に収納してあり、うんこのたびに眺めている。開閉し過ぎて最近綴じがばらけてきた。作家だからして無論書斎の写真が中心なのだが、これがヴァラエティに富んでいる。整理整頓された部屋からゴミ箱同然の部屋、眺望のある明るい部屋からつねに雨戸を閉め切っている部屋、色鮮やかな部屋から殺風景な部屋等々。

上が青野聰氏の書斎部屋である。この頃平塚に家があったというからそこから大学に通ってきていたのだ。僕は文学論という講座をとっていたんだっけな、なにしろ四半世紀前のことだからそのあたり判然としない。初めて講義を受けた時、目つきの鋭い俳優みたいなおっさんだなと思った。計算してみると当時すでに50代半ばだから、それにしては若々しい印象だった。上記の本によれば水泳が日課だったらしく、躰も引き締まっていた。保坂和志の水色っぽいカヴァ―の『季節の記憶』(1996)を手に持って、褒めていた。どういう褒め方をしていたかは覚えていない。その次の記憶が学食のテーブルに青野氏と学生4人くらいが同席している。うちのひとりが僕だ。飯は食べていなかったから、講義が終わったあとに質問が多かったとかそういう理由で教室から移動したのだろう。僕の質問は今(大学生の僕らが)読むべき小説とはとかそんなのだったと思う。この人ならどう言うだろうと興味があって。ルイ=フェルディナン・セリーヌの『夜の果ての旅』(1932)をすすめられた。わりかし熱っぽくすすめられた気がするが、どういうすすめられた方をしたかは覚えていない。周囲の学生もうんうんと頷きながら聞いていた。セリーヌは今に至るも読んでいないが、青野氏の小説は読み返したいなあと最近思い始めている。

f:id:guangtailang:20230215090344j:image萩原朔美氏の個人的な思い出は、考えてみたらほとんどなかった。僕の在籍していた芸術学科の教授だったが、講義もとっていなかったし、接点が思いの外少なかった。映像論とかそんなのを担当していたのだったか。名前が名前だから、萩原朔太郎の孫というのはかなり早い段階で知っていた気がする。ひょろりとして地黒の、骨張って皺の勝った顔をしていた。奇人揃いの当時の学科教授陣の中では控えめだった印象だ。喋っている内容が常識的だったからか。友人Kもそんな風にその頃言っていた。現在は朔太郎記念前橋文学館の館長に就いている。眼鏡をかけたくらいで風貌はあまり変わっていないようだ。ちょっと柔和な表情になったのか。前面に橋が架かり広瀬川が流れるこの文学館には何度か足を運んでいる。行くたび川沿いの緑道を歩くが、凄いいきおいで水が流れていることにいつも驚嘆する。

おまけ。その頃非常勤講師で来ていた松浦寿夫氏のたしかモダニズム論という講義をKととっていたのだが、毎回缶コーヒーを持ってきて、眉間に皺を寄せプシュッとプルタブを開けるから、今日もやるぜとKとにやにやしていた。松浦氏がエスパー伊東に似ていると言ったのもKだったか。ある時氏が〈自分そっくりの姿をした分身〉のドイツ語をド忘れしたみたいで、ドッペルゲンガーですかと僕が言ったことがあった。こういう頭脳明晰な人でもあるんだなあと新鮮に思った。と書いて当時の氏の年齢が現在の僕より若いことに吃驚している。