川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

濡れた螺旋階段

土曜日の午後8時頃、書斎の床に横臥して鼻をほじっていると珍しく父親から電話がかかってきて、明日、南牧村に行かないかと誘う。Hさんは仕事があるらしく、ぼくは特に予定もないので、こだわりなくいいよと答えた。

「なんもくむら」が有名になったのは、2014年、シンクタンクによって全国で「消滅可能性」がいちばん高い市町村だと喧伝されてからで、それまでぼくはその村の名すら知らなかった。父親はなんもくむらも、同じ漢字を書く長野の「みなみまきむら」も知っていたようだが、よもや現代日本の運命である「過疎化」の先頭を走っているとは思わなかったようだ。爾来、彼は南牧村に俄然興味が湧き、数年前に一度行ったらしい。ただ、その時は時刻が遅かったので、天気のよい明るいうちにちゃんと訪れたいという希望を持っていた。

道の駅オアシスなんもく。出発地からおよそ150km。父親は前にも寄ったらしいが、建物裏手の南牧川べりの風景は記憶と全然違ったと言う。季節や時刻が異なるとそういうものだ。澄んだ川で子どもらが水遊びするさまは夏の破片のように眩しい。

f:id:guangtailang:20190825203529j:imagef:id:guangtailang:20190825230834j:imageちょうど昼時だったので、食堂でふたりしてざるそばと味噌こんにゃくを食らう。服務員のおばさんに「南牧村は高齢化率が全国一らしいですね」と父親が向けると、彼女は曖昧な笑いを寄越すだけだった。

南牧村は山間にあって平地が少なく、斜面に石垣を組んで段段にして家や耕地やその他の土地を確保しているのだが、集落が密集しているというよりは川沿いにいくつかの地区に分散してあるような様子で、狭隘な道を行きつ戻りつする中であばら家が並んでいたり、ぽつぽつ老人を見かけはしたが、荒廃の印象はそこまでなかった。また、僻地と呼ぶには下仁田までちゃんとした道路が伸びていた。無論、隈なく見て廻ったわけじゃないが。

南牧村を後にし、ぼくのリクエストで上野村の不二洞並びに上野スカイブリッジへ。てっきり峠道を越えるものと思っていたが、立派な長いトンネルができていた。吊橋の上から下の写真を撮っていると、そばの女性が「あ、鹿!」と声を上げた。指差す方向を見ると茶色い斜面にまぎれるように一匹いる。遠いから写真に入れてもわからないだろうなと思いつつ、撮った。標高およそ700m。

f:id:guangtailang:20190825213004j:imagef:id:guangtailang:20190902142117j:image関東一の規模を誇る鍾乳洞、不二洞(ふじどう)。吊橋の反対側にある。上野村にはもうひとつ、生犬穴(おいぬあな)という魅力的な名の鍾乳洞があるが、こちらは現在クローズしているようだ。

f:id:guangtailang:20190825213112j:image時間は少し遡るが、やっと離合できるほどの山道をしばらく上り、不二洞側の駐車場にクルマを置いた。吊橋を往復したのち、売店で入場券を買い、徒歩でまた勾配を上る。これがたしか300ⅿくらいある。「きつい、きつい」と、傍らを歩く親子連れの40年配の母親が言い、小学生の息子が彼女の背中を押している。遠目にトロッコの軌道のように見えていたのは錆びたローラー滑り台だった。使用禁止の札が揺れている。コンクリートで固めた鍾乳洞の入口にたどり着き、ドアを開けた瞬間、冷風が一気に躰を包む。その先の空間はさらに勾配のトンネルで、120ⅿ向こうにもう1枚ドアが見える。そこを開けると今度は148段だかの濡れた螺旋階段が上方に伸びていた。それを見上げながら、「ここはハードだな。年寄りには無理な場所だ。わたしも年寄りだけど」と父親が言い、階段を上り始めた。「さっきの売店に洞内一周が40~50分と書いてあったけど」とぼくが声をかけたが、それには無言だった。

f:id:guangtailang:20190825213407j:plainf:id:guangtailang:20190825213453j:plainf:id:guangtailang:20190825213534j:plain眩しさに目を細めながら外に出ると、緑の勢力に圧倒されるような場所だった。こちらの方が南牧村よりよほど僻地である。

f:id:guangtailang:20190825213656j:plain鍾乳洞の外縁に設けられた通路。ぐるりと廻って駐車場の方に戻る。これがまたそこそこの距離である。

f:id:guangtailang:20190825214515j:imageオアシスなんもくで買った絲山秋子氏言うところのハイジのパンのようなとらおのパン。4つで1,300円くらいだったか。(『絲山秋子の街道(けぇど)を行ぐ』上毛新聞社出版部より)

f:id:guangtailang:20190825214605j:imagef:id:guangtailang:20190825214615j:imagef:id:guangtailang:20190825214633j:imagef:id:guangtailang:20190825214644j:image