川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

クルマ

f:id:guangtailang:20200914212251j:imageシャオレイの出産は来月頭の予定。諸曁の宵闇を疾走する。

サンルーフ付きのクルマというのは現在の日本でほとんど需要がないと思うが、大陸ではよく見かける。で、試みに調べたらヒットして、(二、三の記事に目を通しただけだが)中国人がサンルーフ付きのクルマを好むのは、要するに「面子(ミェンズ)」によるものらしい。「豪華さの象徴」であると。おれはクルマを所有し、なおかつサンルーフもあるんだぞ。これには信憑性を感じる。

サンルーフ含め、日本にもクルマを所有することに憧れ、所有することで見栄を張れる時代があった。父親の話を聞いていると、彼らの世代が若かった頃がどうもそのようだ。M(父親)の大学時代が以下の年代に重なる。

60年代半ばのいざなぎ景気時代には、カラーテレビ (Color television)・クーラー(Cooler)・自動車 (Car) の3種類の耐久消費財が新・三種の神器として喧伝された。これら3種類の耐久消費財の頭文字が総てCであることから、3Cとも呼ばれた。Wikipedia

今や、日本の若人でクルマを所有していない者は多く、必要な時にはレンタルしたりシェアしたりする。これは都市部に住う若人ほどそうだろう。クルマはあくまで移動の手段であり、所有して見栄を張るものではない、あまつさえ維持コストが馬鹿にならないのに、その金を違うことにもっと有益に使いたいっすよ、という割り切りが彼らにはある。そういえば、同業者の若人のクルマに対する興味の無さには驚かされた。彼に至ってはタイヤがよっつついていればクルマといい、それ以上区別する気はないという。無論、運転免許を取る気もさらさらない。

かくいう私も一貫して「クルマ」と書いているように、ややぶっきらぼうに突き放しているのだが、それは要するにクルマ自体に対する好奇心も知識も愛着も、相対的に自分には希薄だからだと考えてのこと。絲山秋子の本なんか読んでいたら、余計に自分はそうなのだろうと感じる。しかし、週末ごと北関東を疾走しているうちに、自分のクルマ(ほんとうは会社の所有だが)に愛着が湧き始めた。それはどうゆう湧き方かというと、徐々に擬人化されるというもの。もう12万km以上走っている老人なのだが、今も十分パワフルだし、スピーカーはなかなか良い音を鳴らし、独りでこの老人に乗りながらミュージックサーヴァに入れた音楽を聴くのが、いつしか私にとって至福の時となった。そして、擬人化されたこの日本車はなぜか皺の勝った武骨な欧米人の貌がイメージされた。漁師とか木樵みたいな。翻訳された文章で描写されたみたいな。だから、老外(ラオワイ)と呼んでみたいと思う。クルマに名前をつけることは奇っ怪な自己満足であろう。私の友人で自分のクルマに鉄頭(ティエトウ)と名づけている者もおり、彼とは10月に檜原村へキャンプに行く。ティエトウで。

f:id:guangtailang:20200914212217j:imagef:id:guangtailang:20200914212227j:imagef:id:guangtailang:20200914212234j:imageシャオレイの郵送してきた荷物の中に南瓜子があり、スネークセンターで買った陶陶酒オールドをちびちび舐めながら頬ばっていると、いつの間にか何袋も空けていた。ボトルもからっぽだ。急いで茶を入れて飲んだが、酔いが回ってその場で床にひっくり返り、そのままこれを書いている。気色いいなあ。荷物には彼女が見繕ってくれた私のパジャマも詰め込まれており、今夜はそのとろりとした諸曁パジャマ(ヂュージーパジャマ)を着て寝る。

※中国人の「面子」と、日本人の「見栄を張る」は同じではなく、前者には後者より多様で深刻な意味が含まれます。知らんけど。