2016年12月10、11日。仙台の夜景、朝景。ビル群の隙間に規模の大きいことで知られる駅前ペデストリアンデッキも見える。政令指定都市だから比べるわけでもないが、先日行った浜松と比べるとビルの建ち方がみっちりしている感じがする。
ビートたけしの書き下ろし小説を読んだ。文学的装飾の少ない平易な文体で、どんどん読み進められる。会話も多い。
主人公水島悟は木曜日にみゆきと出会い、一度のセックスも無いまま結婚を申し込もうとし、なのにしばらく会えなくなり、ところが意外なかたちで再会を果たし、一緒に生きていくことを決意する。約めて言えばこんな物語だ。悟はあまり個性的に描かれておらず、母親想いで仕事も頑張る常識的な青年だ。強いて言えばよく泣くのが純情過ぎて個性的かも知れない。たけし自身の持っている一面だろう。悟の親友である高木と山下は面白い。彼らの掛け合いは野卑だがテンポが良く芸人のようだ。この小説のスパイスとして大いに効いている。これもたけし自身の一面である。私が個人的に不満だったのはみゆきの造形である。恋愛小説に限らず、男と女が初めて出会う場面は「小説の華」だが、悟とみゆきのそれは極めて凡庸で印象が希薄である。上述したように悟は平凡な男なので描き甲斐がないのかもしれないが、であればみゆきという女をもっと描写して欲しかった。身長はどれくらいか、髪型はどんなか、顔立ちは、指や爪のかたちは、声質は、着ている服は、履いている靴は、身のこなしは、等々。谷崎潤一郎ならねっとりとやっているところだ。まあこれは純愛小説と銘打っているからそこまでフェティッシュになる必要はないが。ただ、こういう細かい描写を重ねることによって、ある女と木曜日に会おうとだけ約束して別れたリアリティが活きてくるように思う。物語の中盤でみゆきのことを「母であり菩薩であり天使だった」と表現するが、あまりにコンセプチュアルではないかと思った。
みゆきは具体的な輪郭を欠いたコンセプトであり、怒ったり泣いたりといった感情の沸騰は無く、悟に対して微笑みを絶やさず、ひたすらに包容力がある。私にはこれが生身の女だとは思えない。純愛小説というコンセプトに身を捧げた幽霊の様に感じてしまうといったら言い過ぎだろうか。いずれにしろ、私には具体的な肉を持った、時に感情の沸騰をみせる、地上の人こそ女である。そういう人が逆説的に菩薩であり天使にみえる瞬間というのはあるのかもしれない。