川、照り映えて

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

静謐空間

f:id:guangtailang:20250906160802j:imageある日の昼下り、鶯谷北口で降車するとラブホ街を抜けて左に子規庵、右に書道博物館の道に到った。今回の目的は後者。今までにも幾度となく来る機会はあったはずだが、入館するのは今回が初めて。道すがら、ホテルから出てくる男女、さらには徘徊する中年男と擦過し、客観的には己自身も博物館の観覧者というよりはラブホの利用客に見えてしまうのだろうなと思う。そういえば昔、藤沢周『雨月』の文庫本(2005)を携えて、鶯谷駅の構内でにしんそばを食って悦に入っていたなと不意に思い出す。それから年月が経過し、40代半ばくらいからMと何度か来る機会があった。今やそれも過去となった。

入場料は500円。すぐ後ろにいた男が「いくらですか?」と訊いているので、僕の支払いを見ていなかったのかと訝しんだが、どうやら中国人青年のようだ。受付の老婦人が青年の出したピカピカの硬貨を「きれいなお金ね」と柔らかく微笑んでも、意味がつかめなかったみたい。ふと、ユーチューバーのむいむいもこの博物館に来ていたことを思い出す。

f:id:guangtailang:20250906160841j:image館内は基本的に撮影禁止。いたるところにその注意書きがある。が、一部のスペースからは撮影可能。特に本館の静謐空間に身を浸している時には不思議な感覚に陥った。ただ空調の音だけが低く唸る中、数千年前の石碑に刻まれた漢字や仏像(造像碑)を見て回る。「鎮座」とか「悠久」とはこういう対象に使うべき言葉なのだとしみじみ感じる。ところがこの館の建つエリア一帯はラブホテル群に囲繞されており、男女のまぐあいに特化されたたかだか日本近代以降の猥雑空間たるや。

f:id:guangtailang:20250906160853j:imageこの独特な書体の注意書きはついついすべて読んでしまう。ディフォルメ中村不折先生の単簡にしてユーモラスなキャプションがまた良い。

空いていてここも穴場だが、池袋の古代オリエント博物館も雑踏をいっとき離れて、「鎮座」とか「悠久」を感じるのに最適の空間である。

f:id:guangtailang:20250906160849j:image博物館オリジナルのトートバッグをひとつ購入し、ラブホ街を通って駅に向かう時、半裸のようないでたちの女が路地からぬっとあらわれて、すごいスピードで携帯電話の相手に喋っている。さっきの静謐空間はなんだったのかと白昼夢のように思われ、またそのうち入館しようと思った。