その日もHさんは父親と畑に出て作業をしていた。ぎらぎらと照りつける太陽は、傍らに置いた水筒の中身を、少しのあいだに熱湯に変えるほどだった。朝、畑の上の土手を自転車に乗って単位(職場)に向かう人たちを彼女はうらめしく眺めていたのだった。
もうこんなことはやりたくないというのが態度に出ていたのだろう。普段から寡黙で、めったに感情をあらわさない父親が作業を続けながら顔だけ彼女の方に向けて、「おれはずっと農民だ。だからおまえだって農民なんだ!」と怒鳴った。
しばらくして、Hさんは畑に出なくなり、プロテストの意思を両親に示した。わたしは紹興の街に働きに行く。農作業はもうやらない。母親は断固反対した。彼女は茶の商売で蘇州方面へ行き、たまに帰ってくるのだが、父親を手伝わない娘を激しく罵った。それでもHさんも頑固だった。最終的に、わかった、そんなに言うなら行けばいいと許可したのは父親の方だった。
その後、リカさんは幼馴染みを誘い、紹興の靴下工場で働いた。それから諸曁で美容師の技術を学び、上海に出、母親から借りた金!を元手に青浦という郊外で美容室を開いた。
牛久シャトー① 1903(明治36)年、現在の愛知県西尾市出身の神谷傳兵衛が創設した。この人は1880(明治13)年に浅草の神谷バーの前身も創業している。
牛久シャトー② 地下の旧貯蔵庫は目が慣れてくるまで暗闇で、奥まで行って帰ってくるだけだが、Hさんは嫌がっていた。これは1階。
牛久シャトー③ 入場無料、駐車場無料。閑散とした資料室を見て回る。
牛久シャトー④ 帰宅してから母親に牛久シャトーに行ってきたよと伝えたら、彼女は日帰りバス旅行で何度か行っているらしく、事業が芳しくないとかで、前と今じゃちょっと違うのよね、ほら名前も変わったじゃない、BBQはまだやっているのかしらと言った。
牛久シャトー⑤ 建物が国の重要文化財に指定されている。ブドウとトンボのレリーフとかステンドグラスとかこういう手の込んだ意匠が贅沢なんだ。
日光街道から都電荒川線の停留場三ノ輪橋に抜けるトンネルの左側に中国物産店がある。そこの経営者は丹東出身の若い女性で、彼女は今新大久保の店舗が忙しくてめったに三ノ輪にはいないのだが、ご主人が代わりに店番をしている。来店客の8割以上は中国語話者の気がするが、我々中国語サークル中の数人の日本人がここを教室に向かう前の待ち合わせ場所に使っている。無論、毎回いくつかの商品を購入し、商売に貢献している。Fさんによればこのご主人、本国では人民解放軍に所属していたことがあるという。柔和な笑顔で北方訛り、実直といえばそうだが、奥さんのような商売っ気がまるでなかった。近頃やっと物売りが板に付いてきた。
去年の秋から僕の妻であるHさんもこの店に行くようになった。彼女の場合は微信を巧みに利用して、あらかじめ商品(生鮮食品)を予約した上で来店する。大方の中国人はそのようにやっているとHさんは言う。ある時、店内の段ボール箱にミニトマトが満々と積まれているのが目に入り、Hさんが「味見するわよ」と一粒摘まみ上げた。するとご主人が「いやー、そうやってみんながやるとどんどん減ってしまって、うちが損をすることになる」と困ったような顔をした。彼女は言った。「あなた、それはうまい商売のやり方じゃないのよ、わかる?」。
青浦でHさんが美容室をやっていた頃、あるどしゃぶりの雨の日、ふと店の前を見やると、いかつい男が庇のところに佇み、雨宿りしていた。彼女は彼を店内に招き入れ、椅子に座らせた。そしてドライヤーを持つと、彼の濡れた髪を乾かしてやった。「いくらだい?」と男が言ったが、Hさんはそれには答えず、世間話をして、小雨に変わった頃、傘を渡して送り出した。それからしばらくして、再び男があらわれ、貸した傘をずいと突き出し、「散髪してくれ」とにかっと笑った。その後、男はHさんの店の常連になった。



