川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

不在とエゴ

今年1本目に『もう頬づえはつかない』(1979・東陽一監督)をDVDで。以前から持っているが、初見の時はおれの精神状態が芳しくなくて途中から流して観た。今回は最後までじっくり観て良かった。ところで〈頬〉という字は案外書けそうで書けない字だと思う。〈額〉は書けるんだけどね。

【ネタバレあり。役名ではなく俳優の名で呼んでいます】

勿論桃井かおりの魅力が横溢している。この時彼女20台後半。まり子という早稲田の学生を演じているが、ちょっと大人っぽ過ぎる。だけど桃井かおり桃井かおりにしか見えないので、そのうち年齢は意識しなくなっている。肢体はとてもきれいです。桃井に奥田瑛二森本レオという愛知県出身のふたりの男が絡む。と言って、三角関係と呼べる様なものでもない。

桃井は歳上の森本に惚れているが、〈風来坊〉と呼ばれる彼はいきなりいなくなる。だのに突然あらわれたり、連絡がきたりする。森本にとって桃井は都合のいい女以上でも以下でもない。森本不在のあいだに奥田が桃井の部屋に転がり込んで肉体関係を持つ。途中、別に好きでもない男なのになんでこうなったんだろうという桃井の気だるいナレーションがある。

カーテンやタオルが風にひらひらしている映画である。風俗映画だが、男女関係の浮遊感覚をあらわしているか。伊丹十三がまったく権威主義的でない自由で衒いを醸すアパート大家を演じている。そこに桃井は住んでいるが、家賃を滞納している。伊丹はま、いいんじゃないですかと頓着せず、アルバイト先さえ紹介してくれる。伊丹はやたら屋上ベランダにいることが多いのだが、桃井とは互いに気が合うから美容室のママに鋏を太腿に突き立てられて入院したらお見舞いに来てくれる。女のひとには毒があるとかなんとか伊丹が桃井と雑談を洒落ていると、そんな話は聞きたくないとばかりに相病室の老人がラジオのボリュームを捻り、野球中継を大音量で流す。そんなディテールが利いている映画でもある。

奥田が郷里の鹿児島に帰って不在のあいだに桃井は森本と会う。奥田に好意がなくもない桃井だが、ずっと待ちのスタンスを強いられてさえ森本に対する気持ちを引っぺがせない。奥田は桃井に惚れており、鹿児島土産をたくさん買ってくるし、向こうで首尾よく就職が決まったから桃井を連れ帰って結婚しようと自分勝手に考えている。桃井はそれにまったく乗れない。他方、森本の桃井に対する気持ちは非常に薄く、秋田に帰ってやり直したいとその場しのぎのことを言ったり、連絡してきたと思ったら30万を用立ててくれなどと言う。まあ桃井を利用しているのだ。ふたりの男にみえるのはそれぞれの如何ともし難いエゴイズム。男のエゴイズムは古今東西常にあり、ほとんどの男が免れ得ない。吉川晃司の歌曲で「せつなさを殺せない」というのがあったが、「エゴイズムを殺せない」のである。

生で挿入したいがために桃井にピルを勧める奥田だが、少なくとも彼女のために己の人生を賭けんとする気概はみえる。だから、桃井が目の前から消え、郷里から送った手紙が封も開けられず束になっているのを目にした時、自分は彼女にとって何ほどの存在でもなかったと悟った時、女の残酷さを知った時、呆然と虚空を見つめる目から自然に涙がこぼれる。

他方、森本は桃井と一夜を過ごし、彼女が妊娠してしまいそれを告げた時、殺してくれ(堕ろしてくれと言っているのかも知れないがそう聞こえる)、おれは自分の血を後世に残したくないんだと非情に言い放つ。桃井はすでに堕胎したことも告げる。どうせ森本はそうだろう、責任などとりようもないそういう男なのだと見切ったのだ。事ここに至り、桃井の森本に対する気持ちは完全に引っぺがされている。コップの水を桃井は傾け、床にじゃーじゃーこぼす。森本にぶっかけたかったのを我慢したという以上に、己の股からこのように血が流れたと示したかったのか。その断念の気迫に気圧された森本の脇を桃井が去ってゆく。