川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

謝った話

f:id:guangtailang:20220821193658j:image午前11時25分。インド料理店に男の客は僕いちにんだった。奥の大テーブルもその手前のににん席も僕よりふたまわりは若い女性たちが陣取っている。インスタグラーム用をすでに2枚か8枚撮り終えているだろう。料理も内装も調度品も〈映える〉異空間なのだ。「これだけいろんな色があって、お互い邪魔してないね」とMが言う。たしかに。どれも少しくすんだ色合いだからだろうか。金属製品も鈍く光るといった感じで。

光に照らされたチーズナンにMがスプーン&フォークを挿れる。ここのおすすめらしいが、これもまた映えるということだ。店に来る10数分前、彼女と谷中霊園にいた。墓石のあいだをそぞろ歩きながら、医者の診断結果、現在の子宮や膣の状態について聞く。会うのは2週間ぶりだ。正面を向いたままのMが淀みなく話す。「涼しいね」とベージュのノースリーブワンピースの彼女が何度か挟み込む。想像していたより状態は悪くなさそうだが、薬があまり効果的でないようで、別の薬を出してもらうべく明日も渋谷のクリニックに行くのだと言う。僕は謝罪するタイミングを計っていたが、まだその言葉が出なかった。ただ、うんうんと頷いている。インド料理店の予約時間が迫ったので御殿坂の出口の方に向かった。この道は遮るものなく陽が照っている。白いフェンスのフックを上げた次の瞬間に振り返り、「今回のことはほんとに申し訳なかったと思っています」と頭を下げた。いささか強引なタイミングだったが、フェンスの外に出てしまう前に謝りたかった。「やめてよ〜、そういうの」とMが僕の上腕にぽんと触れた。「いや、これだけは言っておかないとと思って…なんていうかその…」とあとの言葉をごにょごにょ濁しながら半身になって外に出た。猫っ毛をひっつめにしたMの前で拝跪したい欲望に駆られていた。が、口から出たのは「ちょうどいい時間になったな」。

f:id:guangtailang:20220821193653j:imageその翌日、珍しくMのリクエストで赤坂の日枝神社へ。溜池山王駅の出口7を上がれば、目の前に首相官邸が見える。警察官が道路の端々におり、彼らの車輛も停まっている。僕らには似合わない場所だと互いに言い合った。エスカレーターのある神社を参詣したあと、ランチの店は決めていなかった。赤坂は日曜定休が結構多い。そぞろ歩いていると、目の前にベトナム料理店があった。といっても店は2階で、看板が目に入ったのだ。見上げると良さそうだったのでMに聞いたらすぐに同意した。街路樹の葉ぶりが眺められるカウンター席に陣取ると、涼しいねと彼女が言う。赤坂の風が流れていた。例によって揚げ春巻をたのむ。牛肉のカラフルな炒めも。僕はバインセオ。ラッシーはふつか連続となった。食後にMがバインミーコーヒーが飲みたいと言うから、僕も特に何も考えずアオザイを着たかなり美麗な店員を呼び、「バインミーコーヒーふたつ下さい」と言った。店員の涼やかな瞳が一瞬点になり、「セットの…」とかろうじて言った。なにかおかしいと思い、メニュー表をひろげるとベトナムコーヒー(練乳入り)に決まっていた。「おまえ、つられちゃっただろう。なんだよバインミーコーヒーって。言いたいだけだろバインミー」、「ち、違う。ほんとに間違えたの」と言いつつMは爆笑していた。アオザイの女性は莫迦な男女を相手にせず、ふつうに注文を受けて去った。「あれでさ、バインミーコーヒーって言い張ったらどうなるかな」「コーヒーの中にバインミー刺さって出てくるよ」「めちゃめちゃ脂っこいだろそれ。飲み干せよ」「飲めないよ〜」。Mが大笑いしているのを眺めて幸せだった。