『八月の濡れた砂』(1971・藤田敏八監督)を昨晩見返したが、今さら特に言いたいこともないです。湘南地域が舞台でだいたい海が映っているけれど、ピーカンばかりでもない。テレサ野田が裸で海に入る場面は早朝だが薄曇りみたいな天気で、裂かれた衣服のかわりを広瀬昌助が海の家まで届けて、その時は砂浜に霧が出ている。ちょうど50年前です。
村野武範の反発的な眼光は実にいいと今回も思った。広瀬の憎めない笑顔と好対照をなすのだよな。彼らの処世術の違いを端的にあらわしている。前者は学校をやめ、後者は一応は在籍している。ただ、いずれも将来の展望は特にない。70年代初頭的無気力倦怠。
藤田みどりのクルマを道路脇の空き地に突っ込み、自分をおちょくった彼女を押し倒す広瀬。ひとしきりくんずほぐれつがあったあと、いかにも頼りなげな細いシフトレバーに足をかけた瞬間、ポキリと折れてしまう。「やめた」と力を緩め、例の笑顔になる広瀬。ストップモーション。いつ見ても洒落ている。
渡辺文雄の放ったさんにんのヤクザにボコボコにされ、一敗地に塗れる村野。すると画面が印象的な赤に染まる。でも彼はへこたれないのだな。渡辺のような許されざる大人にぎらぎらする眼差しをたたきつけて。汗ばんだ夏のぎらぎらだ。恢復し、終局のヨットに向かう。
Mに会う。接しているうちに気がついたが、何かいつもより応対が微妙にふわふわしている。聞けば寝不足だという。そう言われればくっきりした二重瞼も少し重そうに見える。そこから自分に引きつけて30代と40代の違いについて熱弁を振るうわたし。30代のわたしは人間ドックを受けたこともなく、特に躰の不調を感じることもなかったが、40代に入って次々に躰の故障に見舞われた。いやおうなく体力の衰え、もっと言えば老いを思い知らされ、30代の過ごし方が悪かったのかとさえ考えるに至った。いわゆるツケが回ってきたのか。睡眠に関しても、30代は極度に不足していても翌日いけたが、40代の極度不足は翌日使い物にならなくなった。厄年というのはよくできている等々。これはわたし一個の経験ではあるが、ある程度は万人にも妥当するように思います。容姿は若く見えるが、38のMには来たるべきまどう不惑に備えてほしいという衷心から、お話しました。親しい友人にも来年まどう不惑に突入する者がいるので、乱脈な30代を送った彼らの40代も注視する必要があります。