川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

長編小説をおっかぶせる

f:id:guangtailang:20210520124704j:imagef:id:guangtailang:20210520125142j:imageMへ向かう熱情は前々回書いたように疲労ないし憂いによって破裂する前に─適度といっていいかどうかは自分でも判断しかねるが─そのサイズを萎ませる。実はこのことはMに会った時にも話している。その対象がMであることは本人にほぼバレていながら名指しはせず、こうゆう情動がおれの内部にあると。すると、Mが言ったのが「それ、わかる」だった。直截な表現を身上とする彼女が付け加えたのは、「めんどうくさい」という言葉。なるほど、疲労ないし憂いの内実をめんどうくさい、わずらわしいと捉えてもいいか。身過ぎ世過ぎで40くらいまでくると、そんな気持ちにさせるものばかりが自分にへばりついている。それらを次から次こそぎ落としてさっぱり身軽なんてわけにはいくはずもなく、くっつかせたまま、あるいはほんとうに要らないものはさすがに剝ぎ取って、それでまあ進まざるを得ない。「いかなれば蹌爾として 時計の如くに憂い歩むぞ(萩原朔太郎《漂泊者の歌》)」。Mにも共感するような情動があるとして、そこからの割り切った歩行は全然おれ以上だと思うが。

Mへの執着。Mへ向かう熱情をこう換言したって構わない。ユーチューブなんか見ると、「愛と執着の違い」とか「執着の手放し方」とかそんな動画がたくさん作られている。何本か見た。有益な部分も勿論ある。しかし、基本的に若者を対象としているようで、壮年の衰えによる熱情を萎ます疲労や憂い(めんどうくささ)に言及されているものはなかった。ただ、中で、執着を断ち切るために自分の打ち込める趣味や物事に意識を振り向けよ、没頭せよ、というのがあった。これは個人的にかなりありかなと思う。

先夜、Hさんとウォーキングがてら西瓜とノートを買いに出た日、商業施設の書店でふと思いついて、『風と共に去りぬ』(マーガレット・ミッチェル 全5巻 鴻巣友季子訳)の1、2巻を買った。何を思ったかというと、破裂して後悔の泥水を啜った若い時分、あの頃の酷い執着が長編小説に没頭することでかなり薄らいだ、あるいはパンチの効いた酒のようにそっちでノックアウトされたと実感した過去を想起し、この壮年の衰えによる疲労と憂いの上にさらに長編小説をおっかぶせるとどうなるか、それを実験してみようと。なんとなればMへ向かうような熱情を持つことはこの先もうほとんどなさそうだから。果たして、その日のうちに183頁まで進んだ。まあ、長編小説の古典なら何でもよかったが、たまたまグリーンの分冊が目についたのだ。時刻が深夜1時を回っていたのでやめたが、もっと読みつづけてもよかった。やめがたかった。このやめがたい読書というのが最高だ。Mとのラインのやりとりは週に2、3回。しかも連絡事項を送り合ったあと奇っ怪なスタンプで終わりにするか、または奇っ怪なスタンプ(まあこれは主におれが送るのだが、相手も変なの送ってくるから)を1、2往復。読書がおっかぶさることで、この頻度がさらに減る?