川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

憂いとMと鍵と

f:id:guangtailang:20210510124957j:image9日。母の日に実家に帰る。途中、松坂屋モロゾフのプリンを買って、湯島天神男坂を上った。最近は肉体鍛錬の成果があらわれ、この程度では息切れもしない。初夏のような陽気だから汗ばみはする。近頃、実家のドアーの鍵を交換したらしく、なぜか私だけ新しい鍵を持っていないことがわかったから、それを言いに来たのもある。

気がつけばMのことばかり脳裡に浮かべている痴人となっているが、それでもこの年齢だから破裂しないのだと考える。30代の前半くらいまではよく破裂して、それが自己本位の行動となって外部(関係)にあらわれ、その熱情は相手を鼻白ませ、やがて離れていき、曖昧な終局を迎えた。数々のみっともないことをしたものだ。しかし、そうゆうエネルギーがあるにはあった。今はそのエネルギーがないとは言わないが、破裂するほどには育たない。経験の積み重ねでさすがに破裂は虚しい空回りになることを知っている。だから理性が熱情を抑制する。たしかにそれもあるのだろう。しかし育たないもっと大きな要因は、それよりも疲労のような気がする。肉体的という以上に精神的な。いや、疲労というか憂いだな。堅固な理性を持っているとは自分では常に思えないが、年齢とともに憂いは増すばかりである。そして内部(自己)のその憂いを飼い馴らすことはできないが、うまくつき合ってはいけるように思う。いくしかないと思う。憂いもそれ自体自己本位的だろうが、憂いがゆえに破裂行動に至らない。憂いが熱情の風船を萎ませる。ああ、何を言っているのか自分でもよくわからない。。

実家には母親と犬がおり、父親は不在だった。コーヒーカップの置かれた空間を眺めていて、普段ふたりの生活だとテーブルがこんなにでかく見えるものかと思った。よにん掛用にしても大きいのだが、それくらいカップがぽつんとした印象だ。プリンの上に乗っている生クリームを母親が犬にあげ、犬は真剣に舐めた。父親の佃煮の買い間違えの話を母親がし、それが呼び水となってふたりでひとしきり父親の認知症疑惑のエピソードを言い合った。父親が3本しかないから私のはスペアを作らなきゃいけないと言った新しい鍵は、母親によって合計6本あることが判明し、たやすく私の手に入った。爽やかな天気だからこのあと散歩すると言って立ち上がった。玄関まで見送りに来て、「サンキューでした」「なんか親父の悪口言いに来たみたいになったな」と笑い合った。