川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

きつい

f:id:guangtailang:20201022090204j:image青春の殺人者』をDVDで観る。大学時代に観て以来。動画配信でも観られるのだろうが、それには「『青春の殺人者』という事件の現場」という樋口尚文による長谷川和彦へのロング・インタヴューや、「キネマ旬報 1977年2月下旬決算特別号「決算号特集Ⅰ 中堅・若手監督対談 ’77が俺たちの年であるために」」の藤田敏八長谷川和彦の対談は付属していない。この特典のあるなしの差は非常に大きい。【以下、ネタばれあり。役名では呼ばず、俳優の名で呼んでいます】

さて、前半1時間を使って延々描写される両親殺しの情景。これが大学生の僕にはきつかった。当時の感触は生々しく、倍の年齢に達した今観てもやはりきつかった。血の海のなかで動かない父親はまだしも、シーツにくるまれた母親を包丁で何度も突き刺し、そのたび痛い痛いと彼女が声を上げる場面、大学に行って大学院に行ってよお。。おとなしい女のひとと結婚してよねえ。。と呟きながら事切れる場面では、今度も目を背け、耳を塞ぎたい気持ちになった。齢44にして考えてみるに、この感情には以下のようなことがあると思う。

両親殺しということが青年期の己の脳裡にかすかでも兆したことのある者には、水谷豊の行動が真に迫って襲いかかる。と同時に、このぶざまで残忍な水谷を見ているうち、やはりこれは絶対的に人の道に悖ることなのだとの思いが湧く。水谷と似たような年齢で見た場合、距離をとれず、一歩間違えれば彼は己であったかもしれないとの衝撃、恐怖、そして共感を感じるのだ。それはきついことだ。

血だまりにキャベツが転がる、包丁を握った水谷がふと外を見やるとカタツムリが幹を這っている、これらのショットはほぼ田村孟の脚本通りに撮られたという。中上健次原作の「蛇淫」は未読だが、おそらくそちらにもこれらの描写があるのだろう。

後半1時間に関しては、長谷川が田村の脚本に納得がいかず、かなり改変したという。田村のは両親殺しについてのディスカッションを入れたり、水谷に変にマニュフェストさせるような内容だったらしい。まあ、それはないやね。劇中の水谷はそうゆう人間じゃない。また、一部の批評家がラストの場面を「抒情の垂れ流し」とくさしたというが、じゃあ、どんなのだったら満足なんだとそれを言った狗糞野郎に訊いてみたい。もう死んでるかな。焔をあげ崩れてゆくスナックを見つめる原田美枝子のそばを離れ、水谷はふらふらと歩き出し、ホースの水で顔や躰を洗うと、徐ろに停まっているトラックの荷台に上り、そのまま運ばれていく。機動隊に両親殺しを告白したにもかかわらず冗談だと思われ相手にされなかった男は、己の意志で行動することをやめ、決着もつけず、目的も持たず、己自身に興味を失ったように流れ(自然)に身をまかせる。 

個人的にイチジクの樹の一連の挿入はちょっと違和感を覚えるところだ。それは大学時代にも思った。逆にスナックに火を放つ前のぐるぐるからの開店祝いパーティのフラッシュバックは秀逸。

f:id:guangtailang:20201023142518j:image22日夜、蒲田だか六郷だかに住むファさんの朋友がつくった水餃子を黒酢で食べる。ファさんは電車で餃子を運ぶ。