15日午後9時15分頃、国分町の路面が照り映えている。
時間遡ってその日の午前中。業界青年会の団体旅行(21名)で仙台へ。朝から篠突く雨で、東北に至っても薄鈍色の空の下を新幹線は濡れ走る。青葉山公園からの眺望。
ニッカウヰスキー宮城峡蒸留所。会で長年懇意にしている旅行会社のC氏の話では、敷地内をウヰスキーコンパニオン(通称ウヰコン)がガイドしてくれるとのことだったが、なぜか大柄で日本語の達者なオーストラリア人男性、ロス氏とともに廻る仕儀となる。今回の旅行企画者N氏が、「ちょっと話が違うようなんですけど…」と苦笑いしながら私に耳打ちしてくる。
ビジターセンター(受付)から窓の外を眺める。
蒸留棟。ロス氏が余市と宮城峡のポットスチルの違い(ストレートヘッド型とバルジ型)、加熱方式の違いなどを朗朗と説明する。
白くけぶる宮城峡。
白くけぶる緑水亭。
宴会で誰かが頼んだ石巻の酒、日高見(ひたかみ)。
15日午前0時、オイルでぬるぬるになった躰をシャワーで流し終えた私は部屋を出、マンション12階の廊下から外に腕を伸ばすと、雨は上がっていた。速足で待ち合せ場所のバーギミーシェルターに向かう。この時間も国分町は若者たちで華やいでいる。地階のドアーを開けて店内を見渡すと、私がしんがりのようだった。椅子に座るや、先輩たちに今夜の内容を訊かれ、私も彼らの内容に耳を傾けた。それがひとわたり終わると、W氏が店のスピーカーを指して、「これ、60年くらい前のやつで、当時、映画館なんかにもあったんだけどさ、ちょっと音がカシャカシャしているかな」と云った。最年長のH氏が「うん、腹にずんという感じじゃないよね」と応じた。私はそういうことには疎いので黙っていた。
16日午前10時30分頃、松島瑞巌寺の本堂から外を撮る。内部は撮影禁止。朝に比べると雨風も弱まり、これなら遊覧船もなんとかなるように思える。
W氏が下調べしていた寿司屋に入る。いいお値段だったが、この海鮮丼は本格的にうまかった。裏手の狭い通路の先にあるこの店は真新しい感じだが、元の店は津波の影響を受けたのかも知れない。
出航。雨は降っているが、湾内は波もない。しかし、塩竈に行くのにちょっと外洋に出るところがあり、そこに差し掛かるとけっこう揺れた。
塩竈港が近づく。人口1人当たりの寿司屋の数がいちばん多いことで有名。人口5万3千余。「「塩釜市」と表記されることも多く、塩竈市内にある市以外の機関の名称の多くは「塩釜」になっており、JRの駅名でも「塩釜」であるが、釜はいわゆる「ナベ・カマ」の「かま」であり、竈は釜をのせる「かまど」のことなので、字義が異なる」。Wikipediaより。一部割愛。
幻想的な昭和の本塩釜駅。
ペデストリアンデッキ、下から見るか?横から見るか?
東京に戻り、最寄り駅でHさんと落ち合い、晩飯。疲労による注意力散漫で、めったにやらないのだが携帯を飲食店に忘れてきてしまう。家に着く寸前で気がつき、私だけ引き返す。そういえば、帰りの新幹線からは2日間拝めなかった青空がみえ、くっきりと茶色い富士山もみえた。
18日夜。繋ぎ合わせたコルクマットに横臥してテレビを見ていると緊急地震速報が鳴り、すわどこだと半身を起こすと、以下のようであった。今回も、下越或いは庄内地方に来るなんて誰も予知・予測していなかった。緊急地震速報はせいぜい数十秒前に知らせてくる程度だから、予知・予測とは違うものだ。次回、余震は別として、大きな地震がどこに来るかなんて、なんびとたりとも予知・予測できない。