川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

『任逍遥』

f:id:guangtailang:20181108210722j:imagef:id:guangtailang:20181108210729j:imageこの映画が日本で公開されたのは2003年2月というから、もう15年経った。あの時はまだビルの外階段を上った2階のユーロスペースで観たのだ。僕は27歳で、働いてはいたが、働くことに屈託を覚えていた。

DVDも所持しているので、現在に至るまでに2回くらいはそれで観ていると思うが、今回、15年ぶりにスクリーンで観た。木曜、夜の客は僕と60年配のキャップを被るおっさんだけだった。

『青の稲妻(原題・任逍遥)』を観るまでに香港映画や台湾映画を観て感心したこともあったと思うが、大陸の映画を観て、この時は震撼させられた。エンドロールに乗って任賢齊リッチー・レン)の「任逍遥」が流れる中、僕の脳裡は映像のいろいろな場面を慌ただしく反芻していた。2001年、山西省第二の都市、大同(ダートン 人口340万)が舞台だが、そこに住まう19歳の若者に強烈なシンパシーを感じ、そのことが自分でも驚きだった。彼らは笑わない。この世の中に何笑うような愉快なことがある、やってられねえよ、そのような面構えである。彼らの青春は僕の青春だと思った。正直、それまでの僕は大陸にも中国人にもたいした興味がなかったし、中国語など少しも解さなかったが、こんな映画を撮る賈樟柯ジャ・ジャンクー)監督と現代中国に俄然興味を持った。

以後、賈樟柯監督の映画は日本で公開されるたびにすぐ駆けつけるようになった。そのあいだにも中国の社会は急激に変化し、発展しながらもあちこちで深刻な問題を噴出させていた。賈樟柯はそのありさまを彼一流のやり方でフィルムに刻みつける。海外の映画祭に多く出品し、たくさんの賞を貰ってもいた。

それにしても『青の稲妻』後半の、小季(シャオジィ)がバイクで砂利と土の急勾配を上ろうとして何度も跳ね返される場面、つづく斌斌(ビンビン)が薄汚れたホールのような場所(長距離バスターミナルの待合室?)で恋人に携帯をプレゼントし、キスを迫られるが何もできず、恋人が自転車でホール内をぐるぐる廻る場面の倦怠感はほんとうに70年代の日本映画、神代や藤田そのものだな。

後年、僕が中国語を学ぶことになるのも、『青の稲妻』の衝撃が熾火のように内部で燃えつづけ、ある時、また盛んに焔が上がるようになったからだと思う。日台混血の女性が主催する中国語教室で、大陸の食文化に並々ならぬ関心を抱き、ブリリアントで珍妙な機智を持つJHと出会うのは、また別のお話。

今、『青の稲妻』を観ると、大陸人たる彼ら彼女らの一挙手一投足がやたらと解ってしまうのが自分でもおかしかった。たとえば、医院で職員のおばさんに食って掛かる巧巧(チャオチャオ)のキレ方、ここ5、6年のあいだにこういうさまを何度も実地に見たことがある。

【追記 2018.11. 14】

『青の稲妻』は2001年、山西省大同に住まうふたりの若者を主役に据え、映画のところどころに当時のニュース映像が挿入される。「中国のWTO加盟」、「法輪功信者による天安門広場での焼身自殺」、「海南島での中国機と米軍機の衝突事故」、「2008年北京オリンピック開催決定」など。これらのうちのいくつかは中国の急速な発展を象徴しているが、地方都市で鬱屈している若者に直接影響を与える事柄ではない(法輪功に関しては、斌斌の母親がハマっているが)。映画の最後の方では、大同から北京までつながる工事中の高速公路が荒涼と映し出される。

高度成長期も終わりに差し掛かった日本の1970年代に神代辰巳藤田敏八は活躍したが、60年代の政治的熱狂が過ぎ去ったあとの日本社会の倦怠と、1989年の六四天安門事件を経たのち、90年代に驚異的な経済発展を遂げる2000年代初頭の中国地方都市の倦怠が妙にオーヴァーラップすることは興味深い。

日本の「1億総中流」という意識は、高度成長とともに1970年代につくられたものだったか。他方、鄧小平の号令一下、著しい発展を遂げた1990年代の中国は、同時に経済格差が凄まじくひらいた時代でもあったか。