川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

諸暨今昔

昨日の夕方5時半頃、強風になぶられた髪を手の腹で撫でつけながらパソコンに向かっていると、ドアが開いて父親の友人T氏が顔を覗かせた。長身痩躯の彼は長い腕を差し出して、「これ、ヴェトナムのお土産。お好きだと聞いていたんだけどなかなか渡せなくて」と、ビニル袋を父親に渡した。すぐに辞する素振りだったが、父親がまあお茶でも一杯と引き止め、彼は腰を落ち着けた。

T氏はいわゆる際物(キワモノ)を扱う会社を経営しており、20数年前、日本の伝統工藝品であるそれらの海外生産に舵を切った。中国、ヴェトナム、カンボジアラオスと渡り歩いて、いちにんで生産拠点を開拓してきた彼もいまや古稀が近づき、白内障の手術をした挿話のあと、中国、東南アジアの思い出を語り始める。

私が浙江省の妻を娶ったことを彼は知っている。それでT氏は中国の話題を私に振ってくるのだが、上海、浙江、紹興ときて、諸暨(ヂュージー)の名が彼の口から飛び出した。私は驚き、「諸暨は妻の生まれ故郷です」と言った。諸暨の名を知る日本人は820人にひとりくらいではあるまいか。「それはそれは」と彼は言い、西施の名を挙げ、「あそこは竹の産地でしょう」と楽しげに言った。

T氏によると、彼が際物の海外生産に踏み切った当初、紹興に生産拠点があり、諸暨には何度も行ったらしい。私の知る2000年代の諸暨は西施故里や五泄(五洩・ウーシエ)など風光明媚な遺跡を擁しながらも、近代化された大陸の地方都市(人口108万)だが、「あの頃は山賊が出たんだよね」と彼は面白そうに笑う。山中をクルマで走っていると、どこからともなく現れた2台のボログルマが前後につき、挟み込むかたちでT氏の乗る停車させるのだという。彼はその後の顛末をなんとなく濁したが、おそらく、薄汚れた男たちが数人降りてきてクルマを取り囲み、金品を出せと反り舌音無しに恫喝したのだろう。 彼はどう対応したのか、興味のあるところだ。Hさんの少女時代の思い出、たとえば山口百恵の『血疑』(原題『赤い疑惑』)、あれは1985年だったか、とすると、T氏の諸暨の記憶はそこまで古くはない、1990年代初頭、「南巡講話」のあとかしら、などとぼんやり考えた。

諸暨今昔物語を一頻り喋ると、T氏は帰路に就いた。