川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

渡航まで

f:id:guangtailang:20171130092054j:image2012年11月深夜。Nは椅子からずり落ちて、床に仰向けになった。天井からぶら下がっている電飾の明滅する光を、下りた瞼を透してNの瞳は浴び続けた。網膜にちらちらするのが心地よかった。白酒をストレートで立て続けに呷り、芯から麻痺してきた頭で、木庭さんを連れてきてやはり正解だったと思った。彼は近いうち、ハルピンに行くかも知れないとも思った。

 

中国語教室は繁華街の目抜き通りにある雑居ビルの8階に入っている。Nは巨大ターミナル駅の地下道で人波に揉まれ続けながら、ビルまでたどり着いた。エレベーターを降りたところで辛子色のセーターを着た男とすれ違った。廊下の向うから長身の〇老師が駆けてきて、あと1コマいけますよ、どうしますか、とすでに箱に乗り込んだ男に問うた。じゃあ、やりますと男は即答し、箱から出てきた。Nに軽く頭を下げ、脇をすり抜けていく。年齢は5つ6つ上か、身長はNと同じか若干低い、額の広い男だ。といって禿げているとも言えない、髪をオールバックに撫で付け、その分、額の照り上がりが強調されているという感じか。N先生、晩上好と〇老師が顔を向け、晩上好とNも挨拶する。

翌日の午後7時にもNは教室に来た。基本は週1ペースで通っているのだが、先週のキャンセル分を振り替えたのだ。いつものように入口でマネージャーのT女史に、お茶は熱いの冷たいのどちらにしますか、と訊かれる。熱いの、と中国語で返す。この「熱い」という形容詞の発話が日本人にはむつかしい。Nも通い始めの頃はたびたび矯正されたものだ。今ではかなり板に付いている。

紙コップに入ったジャスミンティーを飲んでいると、ほどなくして担当の〇老師がブースに入ってきた。黒竜江省ハルピン市出身。長身も長身だが、なにより手足の長さが目立つ。レッスン時に着ているグレーのジャケットの袖が足りていない。そこから出たほっそりとした手首、指先に到るまでつるつると白く肌理の細かい皮膚は、Nにマネキンの手を思わせる。前髪が眉の上で直線的に切り揃えられており、切れ長の一重瞼と調和している。一見、鋭角的に過ぎる面差しとも言えるが、笑うと目がさらに細くなり、少女のような表情をつくる。