川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

グアシャ

7月2日、晴れ。おとといの深夜、トイレに下りていったHさんがなかなか戻ってこない。20分も過ぎたろうか。大便の可能性よりも不安が先に立ち、がばっと起き上がると僕も下りていった。すると、トイレの扉が開け放たれ、便座にHさんはいたが、壁に頭をくっつけている。髪が乱れ、それを指で掻き分けると額に玉の汗が浮いていた。声をかけると、瞼を閉じたまま大丈夫だと言う。しばらく傍らに立っていて、目が醒めてきた。時計を見にいくと2時半が近い。彼女の返事が弱弱しいし、同じ姿勢のままだ。救急車という考えが僕の脳裡をよぎり、口にすると、彼女は拒否した。眩暈があったが、だいぶマシになってきたと言う。いいから寝に戻ってくれ、と。言われるままにすると、Hさんが伝い歩きに上がってくる音がした。ベッドじゃなく地べたに寝たらいいと、暗闇の中で枕と毛布を渡した。地べたといっても薄いカーペットが敷いてある。以前、気分が悪いと言う彼女が地べたで眠ったら翌朝回復していたことがあった。ちょうど窓から良い風が入ってくる位置なのだ。調子がおかしかったらいつでも起こしてくれと言い、僕はベッドに仰臥したが、1時間経っても寝つけなかった。そのうち、彼女の寝息が聞こえてきた。規則的なものだった。

f:id:guangtailang:20200702154917j:image微睡みから目を開き、時計を見ると普段の起床より2時間早く、それでも起き上がった。生まれてこのかた、目の下にクマをつくったことのない僕であったから、寝不足でも鏡に映した顔はそれほど眠っていない感じはない。ただ、全体的に浮腫んではいた。Hさんも目を開き、問題はなさそうだった。地べたに寝ながら、受け答えがしっかりしている。あなたは昨日、刮痧をやって帰ってきたろう? おれはそれが原因だと思う。思い出したんだ。以前にもあなたは刮痧をやった日に吐いたことがある。そう言うと、彼女は黙った。

昼に戻った時、彼女は簡単ではあるがちゃんと昼飯を用意してくれていた。キッチンに立ちながら、さっき朋友と話していた、刮痧は体力の落ちている時にやらない方がいいと言われた。あなたの言った通りかもしれない。うん、アレは見た目も凄いし、個人的にはどうかと思ってるんだが……と僕は言葉を濁して、プーアル茶を喉に流し込んだ。これからはくれぐれも注意して、あらかじめ朋友の意見など聞きながらやってくれよ。まあ正直、あんまりやってほしくはないが。彼女は殊勝に頷いていた。飯を食ったあと、自室の床に倒れ込んで30分程仮眠をとった。

f:id:guangtailang:20200702154930j:image刮痧。グアシャ。日本語ではなんていうんでしょうね。読みはかっさ。調べてみるといろいろ出てくるが、日本ではなじみが薄い。興味のある向きは検索してみて下さい。 

ある日、帰宅したHさんの首から背中にかけて赤黒く変色しているのをみとめた。ぎょっとして、なんだそれは、誰かに殴られたのか? と詰問すると、グアシャ(彼女の南方発話だとグアサ)だと平然と答える。服をめくってみると、肩甲骨のあたりまでかなり広範囲に及んでいる。それで、その時即座に調べた。

刮痧(グアシャ)国際協会のサイトによる説明は以下のようだ。

中国伝統医術の一つで数千年の歴史を持つ民間療法です。手軽で安全、なおかつ効果がすぐに実感できる特徴を持ちます。
牛角(または翡翠)ヘラで全身を経絡に沿って優しく擦り流す方法で行います。「刮グア」とは、擦る動作のこと。「痧シャ」は、瘀血おけつが体表に引き上げられ皮膚表面に現れた赤点のことです。気血の流れを改善することで体内に長期間滞った瘀血が排出され、内臓機能の活性化が図られることにより自然治癒力を高める作用があります。

f:id:guangtailang:20200702225219j:image大岡氏の熱心な読者じゃないから、なんで買ってあったのだろうと我ながら訝ったが、薄いのと題名に惹かれたのかもしれない。読んでみて、ストイックな文体、うまいなあと思うけど、出てくるのが怯懦なくせして分別臭いこと言う男ばかりで、そんな彼らが次々通過し、女はスポイルされるだけ(38歳の女の老いがやたらネガティヴに描写されるのもいやな感じである)、これが花柳小説というものなら興味の持てないジャンルだ。モデル小説だとかそんなことは知ったこっちゃないが、小谷野敦氏の解説は秀逸だと思いました。