川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

中国女

8日夜。『大地』読了。いやー、おもしろかった。四分冊だが、最後の数十頁まできて、ちょっと短過ぎるんじゃないかと思った。このままもっと読んでいたいと。淵と美齢の行く末が気になるだろうと。先入見でキリスト教色が濃かったらどうしようとか思っていたが、そんなこともなく、パール・バック女史のストーリーテリングの巧さに舌を巻きつづけた10日間だった。新居格中野好夫の訳も終始良かった。興奮冷めやらぬうちのメモ。

王龍─王虎─王淵の三代記としては、一介の農民だった王龍が阿蘭を娶ってのし上がっていく「大地」と、海岸沿いの街(上海だろう)やアメリカでアイデンティティに懊悩する王淵の「分裂せる家」がおもしろい。王虎も悪くはないのだが、大言壮語したところで地方の軍閥が暴れている井の中の蛙感が強く、やや辟易させられる。それと、『大地』で鮮やかに描かれるさまざまな中国女が、王虎の「息子たち」では後景に退く。

時代は下り、近代に洗われた都会で淵がその軛から逃れようともがいても、結局、大陸で頼りになるのは血縁、そして物を言うのは権力と金なのだった。処刑される寸前に血縁者のそれらによって彼が助命されたのは実に皮肉と言うべきで、と同時に、現代の大陸も相変わらずなのだよなあと思った。その意味で「新しい時代」は今もやって来ていない。大陸の人民や習俗を知悉するパール・バック女史はいやらしさも汚らしさも描いたから、この大河小説、中国人の受けはあまりよろしくないのだと中野好夫が解説に書いている。

淵がアメリカ生活の中で出会うメアリーとの対話。暖炉が赤々と燃えている中で彼女が信仰への疑惑について語る。へー、キリスト教を小説の中でこうゆう風に持ってきたかと少し驚いた。ここの描写は妙に印象に残っている。

読み進めるほどわかってくるが、王家の連中はやっぱり北方人なんだな(宿州は淮河の北にある)。南方人は小狡いとか、小さい猿だとか、食べ物も気色悪いとか、南方の悪口がよく出てくる(この場合の南方は江南というより、広州とかなんだろう)。

最後の方で、僧侶になったせむしの息子が革命軍に身を投じるのは意外性があった。同じ日陰者として生きてきた梨花が尼になり、ひっそりと生涯を終えたのとは対照的に。たしかに彼が少年の頃、土の家を訪れた王虎の小銃に興味を持ち、触らせてもらう場面が伏線として描かれていたのだ。

そして、この小説には老いと臨終が見事に描かれている。王龍と王虎、そして阿蘭のそれは出色だ。

今の思いつきに過ぎないが、『大地』とか『アンナ・カレーニナ』とか『細雪』とか『しろばんば』とか『白夜を旅する人々』とか、こうゆうのが小説の王道のような気がする。人物が陰翳深く造形され、思弁に流れ過ぎることなく、彼ら彼女らの行動と経験、関係とその変化がめざましく描かれている。