川、照り映え

隅田川沿いに住む壮年が綴る身辺雑記

猫の額

f:id:guangtailang:20191031100735j:image家の向かいの建売住宅の工事が終わりに差し掛かっている。木造3階建だから工事期間中も不快になるほどの騒音や振動はなかった。前面の狭隘道路にトラックが停まりぱなしになるのは鬱陶しかったが。この建売の右隣りに古ぼけた木造2階建の家屋があり、昔から白髪を後ろで結んだじいさんがそこを教室にして小・中学生向けの学習塾を営んでいる。が、経営が成り立っているようには思えない。夜の7時頃、ひとりかふたりの中学生が自転車で来塾するのを見かけるが、それだけだ。9時に終わるのか、自転車が去る気配がし、それから30分以内にシャッターを閉める音が聞こえてくる。

ある日曜日、外出しようとドアを開けると眼前にセダンが停まっており、傍らに30前半くらいのスーツ姿の男が立っている。「すみません、出られますか?」と人懐こい顔で言うので、「大丈夫ですよ」と応じた。隣りの建売に関係ある人間かと思い、「もう売れたんですか?」と問うとちょっと変な顔をして、あ、そうかと合点がいったらしく、「いえ、こちらの家の方にお話がありまして…」と学習塾を指差す。それで私もちょっと不審に思った。

翌日、事務所のパソコンで学習塾の土地・家屋の登記簿を取ってみると、土地は都下の建売業者のものになっていた。建物はじいさんのもの。じいさんが建売業者に地代を払っていることになる。さらに目で追うと、土地は元々じいさんのものではなく、彼と同じ姓の郡山やさいたまに住む人のものだったようだ。郡山の人からさいたまの人が相続し、さいたまの人が建売業者に底地を売っている。建売業者が地代を受け取っていても詮無い話だから、じいさんのところに建物売却の交渉に訪れたのかも知れない。じいさんが寝起きしているのは学習塾と背中合わせの、商店街に面した平屋の家屋なので、学習塾をやめる決意さえ固まれば売ってもいいわけだった。ただ、土地の面積が27坪ほどあり、間口が広くないので、建売にさほど向いているとは思えない。そこで父親に訊いてみると、軽量鉄骨なんかでアパートを建てる手もあるだろうと言い、なるほどと思った。いちばん恐ろしいのはじいさんが土地・建物を所有している商店街に面した家と学習塾の両方を狗糞みたいなマンション業者に売ってしまい、50坪やそこらの土地に狗糞みたいなマンションが建つことだ。そうなれば工事期間中の狗糞みたいな騒音や振動もさることながら、立ちあがったあと、私の家から光が奪われ、ほぼ死ぬ。都会の悲しい光景である。

f:id:guangtailang:20191031100951j:image今でも役所広司河井継之助が重なってこないのだが、そこは役所広司(やくどころひろし)なので実際に鑑賞してみるまで何も言えない。

f:id:guangtailang:20191031100746j:image30日夜。ドラッグストアに行きがてら隅田川沿いを散歩する。この写真のすぐそばに私の卒業した中学校があるが、裏側から校庭を覗くとなんと狭苦しいところで遊んでいたのかと思う。下町の学校にありがちの、ほんとうに猫の額ほどの広さ。プールは校庭の地下に埋まっていて、被せてある蓋をどけると出現する仕様だ。

f:id:guangtailang:20191031100756j:image吉村昭先生の代表作と言われている『ふぉん・しいほるとの娘』を下巻の半分くらいまで読み進めたが、個人的にはさほど出来がいいように思わない。シーボルトの娘である稲が生きた幕末の時代状況が記録文学的に活写されているが、それがしばしば稲のBildungsroman(ビルドゥングスロマーン)の物語を邪魔しているように感じる。稲は魅力的に描こうとすればいくらでも描ける人物だし、28年の時を経て母親の滝、娘のタダとともにシーボルトと会う場面は涙なしには読めない。あくまで彼女とその身の周りに焦点を当て続け、稲─主、幕末状況─従で書いてほしかった。幕末状況を主で描き過ぎたがゆえに冗長である。

その後さらに読み進めると、滝・稲母娘は1年もしないうちにシーボルトから心理的にも物理的にも離れていく。老シーボルトが雇われた女中を次々に孕ませる性慾の塊であり、自分たちに対する愛情が希薄なのに幻想を打ち砕かれたからだ。また、彼の知識はすでに古くなっており、日本の西洋学術の進歩・発展についていけない。このあたりはおもしろい。