先月19日の雑記の最後に観なければと書いた『津軽じょんがら節』(1973・監督 斎藤耕一)をDVDで。深夜皆が寝静まっている時間帯に観たが、外で雨がしとしと降る音を搔き消すように津軽三味線がびゃんびゃんと響き渡る。
もうね、冒頭のこの画で圧倒されてしまうわけです。荘厳という言葉をつい口走ってしまうような。津軽三味線が響き渡ります。
【以下、役名では呼ばず、俳優の名で呼んでいます】
1973年というのは日本の高度成長期が終わった年らしいのだが、この僻地に近代的なものは何もない。ただ、近代化=都市化の影響を受けていないわけではない。江波杏子演じる紅いコートの女が閉鎖的な村落共同体を厭って東京に出奔したことや、村の男連中が漁期が終わるとバスに乗って都市に出稼ぎに行くこと、あるいはまた村に一軒の寂れた飲み屋で東京から来たと覚しいスーツ姿の男が、4年後に東北新幹線が開業すれば3時間半でこんな場所でも来れるようになると云う。実際はもう少しあとの話だと思うのだが。そういう夢も語られる。
どれをとっても決まっている斎藤耕一の画。これは他の人も言及しているのだが、斎藤耕一の映画で女がコートを纏うと素晴らしく絵になる。たとえばこの『津軽じょんがら節』、それから岸恵子とショーケンの『約束』(1972)。そしてこのあいだの江波杏子と野口五郎の『再会』(1975)。3本の映画とも年上の女と年下の男の組み合せだから、もし年上の女と付き合ったなら、コートを着せなければならない。
この映画が傑作なのは、盲目の少女を演じた中川三穂子に因るところも大きい。
出稼ぎに行く男連中を見送る。
終盤の場面。ここの江波さんは顔で魅せる。
荒い波が次々と押し寄せる浜辺にへばりつくようにある村。津軽三味線がびゃんびゃんと響くこの映画は、日本の蕭索たる僻地にあるから寂しいのではなく、人間であることそれ自体が寂しいというような心持にさせられる。
『津軽じょんがら節』の風景に震撼ないし心動かされた人はやはりいるようで、ロケ地巡りをしている。それらを参考にすれば、十三湖周辺、市浦地区や脇元地区がそうなのだそうだ。